・秋の夕やけ鎌をとげ・


きょうは夕焼けがきれいだった。
よく乾燥した秋の、薄い紙のような雲に誰かが火を点けたように、空はしずかに燃えていた。
急に空が広くなり、遠くの声が聞こえてきそうだった。
お〜い、鎌をとげよ〜、と叫ぶおじいさんの声が聞こえてきそうだった。
夕焼けの翌日はかならず天気なので、農家では稲刈りをすることになるのだった。

祖父は百姓だった。
重たい木の引き戸を開けて薄暗い家の中に入ると、そのまま土間が台所と風呂場に繋がっていた。
風呂の手前の土間には、足踏みの石臼が埋まっていて、夕方になると祖母が玄米を搗いていた。片足で太い杵棒を踏みながら、そばの土壁に片手をあてて体を支えていた。その土壁の上の方には、鎌や鍬がなん本も並んで架かっていた。

祖父に聞いた話だが、祖父のおじいさんは刀で薪を割っていたという。どんな生活をしていた人なのだか、想像もつかない。
シンザエモン(新左衛門?)という名前だったので、シンザさんと呼ばれていたようで、その呼称が屋号のようにして残り、ぼくの父が子どもの頃でもまだ、村ではシンザさんとこの○○ちゃんという風に呼ばれていたという。

そのシンザさんとこの悪がきは、家の障子やふすまに落書きをするのが好きだった。
祖父がいくら叱りつけても止めようとはしない。よくみると、子どものくせになかなか上手に画いているので、しまいには、祖父も叱れなくなったという。
悪がきの、ぼくの父は次男坊だったので、学校もろくろく行かずに船場に丁稚に出されてしまった。
そこで、商人としての父の人生が決まったのだった。

子どもの頃に、いちどだけ父が絵を画いたのをみたことがある。
画用紙のまん中に大きな赤いかたまりがあった。それは何なのかと聞くと、父は石だと言った。そんな赤い石があるのかと聞くと、夕焼けのせいで石が燃えているのだ、と父は言った。
九州の田舎を行商したときに見た風景だったのだ。
ぼくら子どもの前で父が絵を画いたのは、それがいちどだけだった。金儲けに日々追われる商人に、絵を画いたりする余裕はなかった。

小学生の時から、ぼくはそろばん学校に通わされ、夜、店を閉めたあとに、父の帳簿付けの計算をさせられた。
振り返ってみれば、ぼくが父の商売を手伝ったのはそれだけだ。高校を卒業すると、ぼくはすぐに家を飛び出した。人あしらいのうまい父の才覚がぼくにはなかった。父もそれを知っていたと思う。
父は80歳で店を閉め、それから6年後に死んだ。

ひとは毎日、ほとんど空の存在など忘れて生活している。誰にもふり向かれなかった空の、夕焼けは1日の終わりのしずかな叫びなのかもしれない。
百姓の祖父も死に、商人の父も死んで、シンザさんとこの夕焼けだけが残った。
お〜い、鎌をとげよ〜、と誰かが叫んでいる夕焼けだ。
だが、もうシンザさんとこに百姓はいない。鎌をとぐ者は、もうどこにもいない。




(写真はベランダから撮影したものです。)

(2006/09)



inserted by FC2 system