・うら若草の・


うら若草のもえいづる心まかせに……、
旅人は山あいの小さな無人駅に降りる。
古びた木肌をさらして、改札口の柵もホームの柱も
深いしわの奥で黙したままだ。
上りと下りの2本の線路も、思い出せないほど昔の
異郷の駅を指し示したまま静止している。
山を下って襲いかかる新緑と、
通過した特急列車のあとに、ため息のように吹いてくる
5月の風の、極上の新鮮さの中で、
旅人は交錯する記憶の列車のはざまに立ちつくす。
まだ別れの言葉も知らなかった頃、
改札口の向こうに並んでいたたくさんの顔は
あれから、どこへ行ってしまったのだろう。
両手でやっと下げていた茶色のボストンバッグは
どこへ送られてしまったのだろう。
今、薄暗い待合室には死人の影もない。
途中下車のキップをさし出しても
パンチを入れる駅員もいない。
旅人を無視して眠り続ける小さな無人駅の、かすかな
夢の気配に、旅人は耳をすます。
うら若草のもえいづる、このひととき。

(2003/05)

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