・そよ風のうた・


若葉がいっせいにふきだして、吹く風がさわやかになった。そよ風がやさしい季節である。
この時期になると、おもわず口をついて出るうたがある。

  掌にうけし微風ほどの生甲斐に人は生きゆく吾もかく亦

22歳で死んだ無名の歌人の短歌である。
彼の名前は本田敏夫という。九州の同郷人であるが、私よりもすこし年上だったので、中学高校を通じても面識はなかった。
彼は国学院大学在学中に、千葉の海岸で自殺をして若い命を絶った。
当時、そのことを知らせてくれた私の友人の手紙には、新聞の切抜きが同封されていて、それには次のように報じられてあった。
「9日午後3時半頃千葉県銚子市小浜町海岸のがけの上に背広服姿の若い男の死んでいるのを漁師が発見、銚子署で検死の結果、男は東京都武蔵野市吉祥寺西村方、国学院大学3年生本田敏夫君(22)=本籍大分県竹田市君ヶ園で死後2日を経過しており、ブロバリン約80錠を飲み自殺したものとわかった。遺書はなく原因不明。」。

その頃、私は東京で新聞配達をしながら代々木の予備校に通っていた。短歌にはあまり関心はなかったが、私もひそかに文学への情熱と夢をもっていた。
彼を死へと追い込んでいったものが、文学上のことか私生活上のことかはわからなかったが、ひとりの文学青年がのぞいていた暗闇が、わたしのすぐそばにもあって、暗くおもく覆いかぶさってくるようだった。
彼はなぜ死んだのだろうか。その後しばらくのあいだ、その疑問から逃れることができなかった。
けれども、何もわからなかった。自分自身のこともわからなかったのである。
東京へは出てみたものの、自分のおかれた状況や進むべき方向もまったくつかめない状態だった。波のように希望と不安がひとつの塊りになって、つぎつぎと押し寄せてくるのだった。

その後、私は暗闇に深く迷いこむこともなく、悶々とした若い日々は過ぎた。
文学への思いは、ときどき小さな灯りのように点っては消えた。結婚し、子どもが生まれ、次第に忙しい日常生活の中へ青臭い夢は埋没していった。

50歳を過ぎた頃、九州の友人から1冊の歌集が送られてきた。『本田敏夫歌集』となっていた。
昭和27年に仲間うちでガリ版刷りされた古いものを、私の友人がワープロを使って作り直した薄い冊子だった。敏夫が亡くなる6年前の16歳の時の作品が集められていた。
読み進むうちに、私ははじめて敏夫の肉声をきく思いがした。長い空白ののちに、すっかり忘れていた人に再会したみたいだった。
九州のある山村の情景や、そこに住む人たちの生や死をとらえた若いみずみずしい感性に、私は懐かしい古い風景をみるように感動した。

  沈みゆく日に光りつつ松本村よぎりゆく青き川が見えをり

きらきらと輝くように、1本の回想の川がみえてきた。

  樹林の中汽笛は木々にこだましぬ一人すぎ苔を集めておれ
  ば
  
  城原山あたりより来しか海魚のごとく散り来ぬ青ずきし葉が
  
  岩陰の流れにしばし対きおれば鱗光りて群れ行く魚
  
  赤不動の黒刷りの絵がまつぶさに寺の前を行く度うかぶ
  
  阿蘇山の灰降りてくる夕空をギフチョウが高く舞ひて行きた
  り

若い歌人の詩心を育んだ風景である。そのような風景の中で詩や文章を書いた日々が、私にもあった。

  三十八度線又もや越ゆと告ぐる夜に吾レポート書きつづけ
  たり

朝鮮半島が戦火で燃えていた頃だ。
ひとつの国だったものをふたつに分断する、38度線というものがあることをはじめて知った。けれどもこの国境の分断線は、戦さによって影のように軽々と半島を上下するのだった。影はいつか玄界灘を跳び越えて九州まで伸びてくるのだろうか。漠然とした戦争の恐怖があった。
海の向うの砲弾の響きに耳を澄ましながら、16歳の高校生歌人はレポートを書き、あいまにうたを詠んでいたのだろうか。

  ひたすらに今宵眠らな新しく開けくるわが命思ひて

  わからなさをわかるまで言はむと思へども言いだししがすで
  に寂しくなりぬ

うたは「言いだししがすでに」で、詠んだあとにも寂しさは癒されなかった。

  美少女の汝は病おもかりきヤマアジサイをつみておれども
  
  わが母の心臓の弱まる夏が来てひぐらしがなく心許なき声
  
  体弱きわが母が作り続けたる裏畑のなすもとるべくなりぬ
  
  夜のふけを風の入り来て亡骸の母を守りゐる吾等を吹きぬ
  
  死の後も咽喉につまりし紅き血は吐せまうさず埋めまゐらす
  
  汝の魂ありと思へばこの部屋の朝の光も心しみたり

姉の死、母親の死と、うちつづく肉親の死があった。
敏夫の妹と私は同級生で、中学2年か3年の時に同じクラスだったことがある。彼女は体格もよく、勉学もスポーツも万能で、その落ち着いた雰囲気は上級生みたいで、私にとっては近づきがたい存在だった。
あるとき、彼女の書いた詩が学校新聞に載ったことがあった。たしか『灰色の日』という題で、母親の死を書いたものだったと思う。
「灰色」という暗い色で表現される生活や感情があるということが、楽天的な少年だった私には、異質な色彩を見せられた思いで衝撃だった。彼女の周りにある灰色の靄のようなものが、私にはまだよく理解できず、彼女がますます雲の中に入ってゆくのだった。
あれから長い年月がたった今になって、『灰色の日』という彼女の詩と、肉親の死を詠んだ敏夫のうたとが、灰色の風景の中でようやくひとつに溶け合った。

  ああ何のためにだ青白き海の彼方の断崖のランプよ

若き歌人は問う。何のために、何のために。断崖のランプとは何だったのか。それは、自らのランプを問い続けるものでもあった。その問いは死に至るほどに重たいものだったのだろうか。
肉親を襲った暗い死の影を、彼はその後22歳まで振りきることができなかったのだろうか。それとも、別の影にとりつかれていたのだろうか。文学上の悩みや、恋の悩みや、そのほか漠然とした青春の悩みが彼を追いつめたのだろうか。
かつて彼の死を知らされた時に、私の頭を去来したさまざまな憶測が、いままた彼の歌集に触れたことで蘇ってくるのだった。

  黄色なる煙草干しゐき暖かき日に自転車で孝士君を訪へ
  ば
  
  清き愛の美しさを幾度も言ひてゐし汝も吾も貧しき農夫の子
  
  つるべの音冴へ冴へとして軋み鳴る夜遅く友と足洗ひをり
  
  ヨハネ伝の1頁切りぬきはなさざりし友を君等は不良少年だ
  と言ふ

私の友人と敏夫とは家が隣り合っていた。彼が敏夫に最後に会ったのは、昭和32年、それは敏夫の死の前年のことであるが、ちょうど敏夫が春休みで帰省しているときだった。
たまたま彼が敏夫の家に呼ばれていくと、敏夫の友人も幾人かいて、みんなで『新世界』のレコードを聞いたりして、夜更けまで談笑したという。
そのとき、立原道造の『はじめてのものに』という詩を朗読した敏夫のことを、友人はよく覚えていた。
その詩は、私も暗記するほどに好きな詩だった。
「…その夜/月は明かったが/私はひとと/窓にもたれて語りあった(この窓からは山の姿が見えた)/部屋の隅々に/峡谷のやうに/光と/よくひびく笑い声が溢れてゐた…」
その夜からちょうど1年後の早春だった。敏夫が東京の下宿を出て向かったのは、郷里の九州とは反対方向にある、東の果ての犬吠埼だった。ただ死ぬためだった。

  寄せてくる波にあらがふ心地かも吾は朝の海に対ひて
  
  海恋ひて嘆くにあらず母の死を悲しむにあらず故なき悲しみ
  
  水夫よ水夫よ赤道を越へて行く楽しき心吾に聞かせよ

30年後に、敏夫の終焉の場所を訪ねた私の友人の報告によると、犬吠埼のその場所は、砂礫の混じった赤土の崩れやすい崖で、打ち寄せる太平洋の波は荒く、吹き付ける海風も厳しいところだったという。
「掌にうけし微風ほどの生甲斐に人は生きゆく吾もかく亦」と詠んだ16歳の歌人は、22歳になるまでのそれからの6年間、ずっとそよ風ほどの生きがいを支えにして生きていたのだろうか。
私はいま、この年になってやっと、そよ風ほどの生甲斐というものを実感できるようになった。
この微かにあるかないかの生きがい、それは、早世の歌人が残していった、わずかなうたの襞(ひだ)を伝って吹いてくる、やさしいそよ風のようなものかもしれない。




(文中の短歌は、すべて『本田敏夫歌集』からの引用です。)

(2005/04)



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