・『創世記』の7日間・


夏は暑い。当然のことだが、あらためて夏は暑いと思う。
今年はクマゼミが大発生しているらしく、蝉の声も例年より騒がしいような気がする。まさに蝉時雨。外に出れば頭上の樹々から、家に居れば窓という窓から、こちらの都合はお構いなしに襲いかかってくる。
夏は暑さと蝉の喧騒に攻められて、ただじっと耐えている受身の状態になってしまう。まるで滝に打たれる修行者のような気分にもなる。そんな精神状態が作用してか、この夏また、私は聖書など取り出して読んでいる。
断っておくが、私はクリスチャンではない。仏教やイスラム教と同じくらいキリスト教にも興味はあるが、私が聖書を読む姿勢は、漱石や春樹を読むのとあまり変わらないかもしれない。
「元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり」
なんとなく懐かしく、ほっとするこの書き出しの言葉。私はこの文章を、もうどれほど繰り返し読んだことだろう。それだけ、私は幾度も聖書を開き、そのたびに、幾度も投げ出してしまったともいえる。
「地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黒暗(やみ)淵の面にあり神の霊水の面を覆ひたりき 神光あれと言ひたまひければ光ありき 神光を善と観たまへり 神光と暗を分ちたまへり 神光を晝と名づけ暗を夜と名づけたまへり 夕あり朝ありき是首(はじめ)の日なり」。
混沌の中に、まず「光あれ」と言って昼と夜が造られた。これが初めの日、すなわち創世の第1日目である。
第2日目。神は水の中に穹蒼(あおぞら)があるので、水と水とを分けよと言われた。ここには、大きな水の円環(冥府の大海)の中に大空があるという、紀元前の当時のバビロニア型の宇宙観があるらしい。私が少年の頃に思い描いていた空の上にも海があるような宇宙観に近い気がする。
「神穹蒼(あおぞら)を作りて穹蒼の下の水と穹蒼の上の水とを判(わか)ちたまへり」、かくして大空が生まれ天と名づけられた。
3日目、神は天の下の水を集めて海を造り、乾いた部分に土を造った。この土の部分は地と名づけられ、更に「地は青草と實(たね)を生ずる草蔬(くさ)と其類に従ひ果(み)を結び みづから核(たね)をもつ所の果を結ぶ樹を地に発生(いだ)すべし」と言って、草や樹が造り出された。
4日目、神は「天象のため時節のため日のため年のために成るべし」と言って、天に「二つの巨(おおい)なる光」を造り、大きな光(太陽)に昼を、小さな光(月)に夜を司らしめ、更に星も造られた。
5日目には、「神巨(おおい)なる魚と水に饒(きわ)に生じて動く諸(すべて)の生物を其類に従ひて創造(つく)り又羽翼(つばさ)ある諸の鳥を其類に従ひて創造りたまへり」。ここに魚や水中に棲む生物、地上や空を飛ぶ鳥が造られた。
6日目、神はまず「地の獣を其類に従ひて造り 家畜を其類に従ひて造り 地の諸の昆蟲(はうもの)を其類に従ひて造り給へり」。その後、「我らを象(かたどり)て我らの像(かたち)の如くに我ら人を造り 之に海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地に匍う所の諸の昆蟲を治めん」とて、神は自分と同じ像(かたち)をした男と女の人間を造り、諸(すべて)の生きものに向かって「生めよ繁殖(ふえ)よ地に満盈(みて)よ」と言われた。
かくて「斯天地および其衆群悉く成りぬ」で、創造を終わった神は、7日目は休まれた。「神七日を祝して神聖(きよ)めたまへり」。
旧約聖書『創世記』の第1章が終り、このあたりで、はや私も「安息(やす)みたまへり」の気分に捉えられる。私は読みかけの聖書を閉じて、この本の厚みは枕に頃合ではないかと邪な考えに落ちる。
私には、イエス・キリストのように「なんぢら強盗に向ふごとく剣と棒をもち、我を捕へんとて出で来たるか」と言って、睡魔に立ち向かうほどの威厳も気力もない。
朦朧としかかった私の頭の中では、エルサレムの群集の如く騒がしい蝉の糾弾が、いつしか、バッハのカンタータに変わっていくのである。


(写真はクマゼミ。セミの仲間では一番からだが大きく、鳴き声も高い。)
(2003/08)



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