・さまよいの中へ・


毎朝ジョギングをする近くの自然公園の、雑草の生えた斜面で、ひとりの男が野宿を始めてからほぼ1年がたつ。テントもなく、まったくの青天井の下で寝起きしているから、台風のときなどは、雨の当たらないどこかに避難しているのだろう。
男はこの公園にすっかり居ついた風で、どこかへ立ち去る様子もない。傍らの潅木の茂みに、わずかな持ち物が縛りつけられている。都心部の公園とちがい、他に野宿をするような者もいないのだが、この場所はいつのまにか男のテリトリーになっている。
男は犬を連れている。この1年で、犬はひとまわり大きくなって、毛並みも色艶もよくなったようにみえる。犬にはこの生活が合っているのかもしれない。それに比べて、男の方は色が黒くなって服装も薄汚れ、体も痩せて小さくなった。
朝夕、男は犬を散歩させる。犬が嬉々として男を引っ張っている様子は、この公園にくる前にあったであろう男と犬の、ごく平穏な生活がそのまま続いているようにみえる。男には家族も家もあったにちがいない。そんな家をたったいま出てきた人が犬を散歩させている。そんな光景である。
すれ違うとき、男はなにげなく私の視線を避ける。私たちは公園でしばしば会うから、顔はお互いに見知っている。男の意識して避ける気配に、私の方もよけいな意識をしてしまう。すれ違うとき犬に何事か話しかけている男のしぐさも、なにか意識的な行動に思えてしまう。私は男の生活に干渉しようなどという考えはないが、無視できないでいることも確かだ。

公園のなだらかな斜面を下ったところには、かなり大きな貯水池がある。この地域によくある古い農業用水で、公園造成の時にそのまま残されたものだろう。
四季によって池に棲む生き物の顔は変わる。
春から夏にかけては、亀や外来魚のブラックバスなどが水面近くを泳ぎ回っている。やがて秋が深くなると亀は冬眠し、魚は水底に姿を沈めてしまう。
その頃には渡り鳥の鴨が飛来する。カラスに似た川鵜もやってくる。冬のあいだ、池の水面は水鳥で賑やかになる。春になると、池の周りの桜が満開になって水面が急に明るくなる。桜の花が散ると、名も知らない雑木がつぎつぎに白い花をつける。暖かくなって鴨が去ると、ふたたび亀が浮き上がってくる。
そのようにして公園の四季が巡るのを、男は犬とともに毎日眺めていたのだろうか。

孫娘がぽぽちゃんのベビーカーという玩具を、私の妻に買ってもらって喜んでいる。4歳になった誕生日のプレゼントにと、本人からちゃっかりリクエストがあったものだ。
この孫が生まれた頃、私は孫の誕生どころではなく、心身ともにかなり苦しく危険な状態にあった。体調をくずして、心療内科からもらった安定剤と睡眠薬を服用していた。無気力になったり不安になったりして落ち着かなかった。いくぶんかは薬のせいもあったかもしれない。
仕事をなくし、収入もなくなった。車を手放し、家財道具も整理して、家賃の安い公営住宅に移った。前途は暗かった。
毎日、求人広告を眺めながら新しい仕事を探した。大阪市内のある会社の面接を受けた帰りに、天神祭りの準備でにぎわっている中之島公園にふらっと寄ってみた。
祭りの賑わいをよそに、公園にはいたるところ青テントやバラック小屋が建ち、その中でホームレスが寝ころがったり酒を飲んだりしていた。
それまではあまり関心のなかったそのような光景が、そのときは急に接近してみえた。このまま仕事も見つからず、家族も崩壊してしまったら、待っているのはこんな生活にちがいない、という暗い思いが痛切に迫ってきた。もはや、そこまでの道のりはそれほど遠くはなかった。むしろ、そこへ行き着くのさえ容易ではないだろうと思われた。
慣れない仕事への不安と薬に頼っていることのこころもとなさ。面接を受けては断られることを繰り返しているうちに、次第に暗がりの道に引き込まれていきそうだった。
にぎやかな祭りの太鼓や鉦の音がそらぞらしかった。

あのときの孫が満4歳になった。
あれから4年がたったのだ。今は孫の誕生日を祝ってやれる生活をつくづく幸せだと思う。
わずかな年金と貯金で暮らす私たち夫婦の生活は、経済的には最下層の生活をしていることになるだろう。
車がないから、どこへ行くのも歩くことを基準に考えなければならない。駅までの20分の道は上り坂ばかりで、ちょっとした山登りをする感覚だ。スーパーへ買い物に行くのもリュックを背負ってゆくから、まさにハイキングだ。健康のためにはとてもいい。けれども歩けない老人になってしまったら、姥捨て山に捨てられたようなものかもしれない、などと、今のところは笑い話で済んでいる。
だが、妻はこのような生活は不本意らしく、ときどき不満が爆発してしまう。私は自分がまいた種だから、どんなことも甘受しなければなるまいと覚悟している。それに私は今の生活にまあまあ満足している。私があまり外を向いていないせいもあるだろう。
私の生活は毎日、パソコンと書物とだけ向き合っている、ほとんど引きこもりの生活である。けれども、やっとこの場所を確保できたというのが実感でもある。私はいま好きなことをしているのだ。
40年のブランクののちに、若い頃に挫折した文学らしきものの林に分け入ってしまい、、いままた当てもなくうろつきはじめているのだ。あいかわらず道があるのかないのか茫漠とした林の中である。林の奥には薄明かりさえ見えないが、今は林の中を歩いているという自覚だけで楽しい。満足なのである。

公園の男が連れている犬は、よその犬や人が近づくと激しく吠える。この犬は今も家を守っているのかもしれない。公園の雑草の中には、私には見えないが犬とその主人の家があるのだろう。あるいは、家よりももっと大切なものがあるのかもしれない。
私は公園で暮らすことからは、かろうじて逃れることができた。けれども、日常からさまよい出た私の魂は、公園の林のさらに奥をさまよいはじめているようだ。




(写真は近くの自然公園の雑木林。トチやサワグルミの木がある。)

(2004/09)

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