・男の役割・


男の力を貸してほしい、などと、思い出したように妻に言われたりすると、新鮮な驚きがあったりする。
自分は男だったのか、まだ男だったのか、と戸惑ってしまう。
最近はほとんど、自分が男であることは忘れているし、男の役割なども、めったに意識することもないからである。
妻が言うところの男の力とは、棚の高いところにあるものを下ろすこととか、ジャムの入った瓶のふたを開けることとか、切れなくなった包丁を研ぐこととか、そんなていどのことで、大げさに男を持ち出すほどのことではないのだが、それでも、そんな些細なことにしか、自分に残された男の部分が関わっていないのだと思うと、なんとも複雑な気持になるときもある。
男はいつまでも男でなければならないのだろうか。
むしろ、日常生活では、私は多分に女の領域に入り込んでいるともいえる。
洗濯物を干す、茶碗を洗う、米をとぐ、さらには野菜炒めをしたり紅茶を入れたり、とか。でもまあ、この程度のことは、昨今では男女の職分も曖昧になっているから、さして書きたてるほどのことではないのだろう。

最近の私の生活拠点は、もっぱらインターネットの投稿詩サイトであるが、詩を書くときの私は、男になったり女になったり、子どもになったり老人になったりと、性も年齢も超えて奔放である。
この自由さが、詩を書くことの楽しさのひとつともいえるが、一方で、いつのまにか自分が何者であるかも分からなくなりかけているともいえる。
ときに応じて、きょうは男でいこう、女でいこうと、自分の中で小さなギアチェンジをするのである。そして、ときにはギアがうまく入らずに混乱して自分を見失うこともある。
ネットではハンドルネームというものを使うのであるが、このネット用の名前の方が本名よりも親しいものになっている。最近では本名を使う機会も少なくなったので、たまに郵便物に自分の名前を見ても、なんとなく白々しいなといった印象を受けてしまう。昔の名前に見えてしまうのだ。

しょせん名前なんて、そのていどの軽いものなのかもしれない。社会生活にどっぷりと浸っている間は、常に他人と自分を区別し、自分の存在を主張しながら生きているわけだから、自分の名前の存在の意味も大きいといえるだろう。
けれども、いったんリタイアして社会から遠ざかり、名刺の必要もない生活になってみると、自分というものも希薄な存在になってしまったみたいで、いつしか、名前さえあまり必要ではなくなってしまう。このことは、人によっては耐えられないほど淋しいことだろうと思う。

幸か不幸か、私はもうひとつの名前を見つけることができた。
ネット上の私のハンドルネームは、私にとって本名よりもずっと親しいものになりつつある。たとえ、多重人格的なネット人になっていようとも、そこで私を証明するものは、ひとつのハンドルネームなのである。このハンドルネームを使いながら私の人格もつくられていく。それは多分に曖昧な人格であるが、ネットとはもともとバーチャルな世界であり、曖昧なもので、そこにいるときの私もまた、そういう曖昧な存在なのである。
だから、ときに私を呼ぶ妻の声にはっとして我にかえり、とまどい、驚くのかもしれない。その瞬間にとり戻していると思われる本来の自分も、一体どんな人間なのか、最近ではかなり曖昧なものになっているような気がする。
妻に言わせれば、まさにネットボケなのだ。
そして、妻が新しいジャムを買ってきたら、私はまた、一瞬もとの男みたいなものに戻るのである。




(写真は咲き誇る金木犀。香りは風にのって空まで満ちていきそうだ。)

(2004/10/14)



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