・娘へ(ひなまつり)・


この季節に、毎年出すひな人形に1通の封書が添えられている。娘の初めてのひな祭りに、私が娘のために便箋11枚に書き記したものだ。
1969年の春、東京には大雪が降った。一家はその年の5月に東京を引き払ったので、東京での最後の春でもあった。
毎年、おひな様と対面するこの季節になると、私はこの手紙を読み返すことになるのだが、そのたびに、年ごとに古くなる当時の生活がよみがえってきて、ひとりで懐かしんでしまう。
この手紙もだいぶ古びてきたので、とりあえず、記録をかねてここにアップしておくことにした。個人的な記録であるから、公開することには少々気が引けている。


「娘へ

めずらしく雪の降る日、
おまえはお母さんにおんぶされて、
3人で東武デパートへお雛さまを買いにゆく。
おまえのためのこのお雛さまは、
米州という偉い人形師の作ったものらしい。
ねだんは1万2千円した。
ちょうどこの朝、九州のおじいちゃんおばあちゃんから、
おまえのひな祭りにと送られてきた1万円を使った。
おまえが大きくなってからも、
大切に出来るような立派な人形だと思う。
今のわが家にとって、
これはぜいたくなお祭りになった。

2月23日に早いひな祭りをする。
中野のおじいちゃん、おばあちゃんとさっちゃん、
わんぱくまさあき君ちの3人。
これだけの人がお客さま。
桃の花はおばあちゃん、
小さな重箱は百合ヶ丘のおばちゃんから。
ちらし寿しと竹の子のおすいものに
自家製のたまご酒。

きょうは3月3日―
おまえはあと5日でちょうど8か月になる。
お母さんがスポック博士の育児書を読んで言うには、
8か月では歯が生えて寝返りをうちます。
はいはいをして親のまねをして芸をはじめます。
だがおまえは、歯はまだ、
寝返りもしないし、はいはいももちろんだめ。
体ばかり大きくなってのんびりやなのか。
それでもお坐りだけはだいぶうまくなった。
芸もすこしなら。
アップー…これが得意。
夢中でやったあとは口のまわりが唾だらけ。
ゴンゴン…弾みをつけて後頭部をぶつける仕草、
ごんごんと言うと後頭部を私の胸にぶつけてくる。
おまえに言葉が通じた喜びが胸にごんごん。
今はこれが一番よく通じるサインだ。
歩行器にも慣れて、
足を交互に踏み出すこともおぼえた。
タンスに傷をつけながらぴょんぴょんはねるとき、
お前の喜びが一番よくわかるとき。

おまえの食事―
ミルク200ccを1日4回、どうしても飲もうとしないときも。
乳首を口に入れようとすると、
げえと言って吐き出してしまうのは何故、
決まっていつもそうするのがわからない。
離乳食は白身の魚、にんじん、鶏肉、特製おじや、
じゃがいも(これはあまり好きではないらしい)。
昨夜はすき焼きの中の麩、焼きどうふ。
お茶が好き。

お雛さまのことを書いて、
お母さんが九州へ手紙を出した。
おまえはまだ一度しか会ったことがないが、
九州ではいま、
おじいちゃんとおばあちゃんがふたりだけで暮している。
お父さんはその家の長男で、おまえは初孫だ。
今年は暖冬だったので、
店はあまり商売にならなかったそうだ。

おまえが生れたばかりの頃、
毎日お湯に入れてくれた中野のおじいちゃん、
顔を見るとおまえは泣き出してしまうが、
きょう3月3日に、
このおじいちゃんとおばあちゃんは、
武蔵小山というところにお菓子の店を開店した。
ガムやチョコレートがいっぱいあるから、
おまえのお気に入りの店になるかもしれない、ね。

ついでに、お父さんお母さんの近況も―
お母さんはおまえを生んでから体が変わった。
髪の毛が抜けて薄くなっていたが、
丸ぼうずだったおまえの頭に髪が生えてきたように、
お母さんの髪もだいぶまともになってきた。
すこしずつ体もやせて、
鼻が痛くなったり口内炎を出したり、
ときどき頭痛がしたり、
これはお父さんの持病がうつったのだと言う。
お父さんの体重は54kgと55kgのあたり、
結婚このかたちっとも太れない。
食べ過ぎるとおなかを壊して口内炎を出す。
お父さんが口内炎を出すとお母さんはツノが出るらしい。
家計簿をつけるのはお母さんの役割だが、
お父さんの月給が手取りで4万5千円、
配給米が1kg150円、家賃が1万5千円、
ちょうど家賃分が毎月赤字になる。

きょうは親子で風邪を引いている。
小さなおまえが一番最初に引いて、
次がお母さん、そしてこんどはお父さんも。
今年は香港かぜというのが流行った。
風邪にも名前がついていたんだね。

いまは夜の9時―
お母さんがおまえを寝かせようとおんぶしていたが、
とうとうあきらめて歩行器に入れてしまったので、
おまえは私のそばをがらがらごろごろ、
目が合うと笑ってみせたり、跳ねてみたり、
ちょうどいまは、
あれあれ、うんうん力んでいる。
おとなと同じうんちをするようになったもんね。

膝の上に抱いたり座ぶとんに寝かせたりすると、
おまえが大きくなったことがよくわかる。
座ぶとんからはみ出した頭を、
畳にこすりつけては泣いている。
おまえは体も泣き声も大きい、
座ぶとんにおさまらない大きさが滑稽だ。

初めておまえを見る人は男の子だと思うらしい。
男らしい顔をしたお坊ちゃんとお世辞のつもり。
東武デパートの店員さんは、
ぼく雪の中を大変だったねと言った。
20年間ひな人形を売ってきたことを自慢する人が、
ぼくがひな人形を買いに来たことを、
不思議とも思わなかったのだろうか。
男の子のような帽子をかぶってはいたけどね。

おまえは手も足も大きいし、顔も大きい。
きっと大女になるだろうと言われたりする。
なん十年かのちに、
このお雛さまを提げてゆく、
お嫁さんはどんなだろう。

         1969年3月3日  父」




(写真は近所の公園。遊具もまだ冬の冷たさを残している。)

(2004/03)

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