・虫のようなもの・


夏のあいだも、虫たちはずっと生きていたろうに、と思う。
いつの間にかセミの喧騒がなくなってみると、急に活動を始めたように、虫たちの存在が明らかになってくるのです。
バッタが草むらで跳ねる。カマキリが歩道を横切る。昼も夜もコオロギや鈴虫がさかんに鳴いている。まるで虫たちが、今になって一斉に生まれ出てきたようです。

けれども、鳴き声もせず、目にも見えない虫もいます。
淋しいなと思ったとき、こころのすき間に住み付いてしまう。不安で心もとない、もやもやの中で、1匹2匹と動いたりします。
捕まえることもできないほど小さいもの、虫のようなものが、人のこころの中で生き始めることがある。今はそんな季節でもあります。

「このところ、夜になると何かがずれるようになったのである。何がずれるのか、時間がずれていくような気もしたし、空気のずれていくような気もしたし、音がずれていくような気もしたし、全部ひっくるめてずれていくのかもしれなかった。それで、昼間梨畑で働かせてもらうことにした」。
読んだ人もいると思います。これは、川上弘美の短編『夏休み』の一節です。

ある日「わたし」は、梨畑で、白い毛の生えた3匹の生き物を見つけて、家に連れて帰ります。2匹はすこぶる元気なのですが、1匹は臆病で引っ込み思案。「ぼくいろいろだめなの」と言葉を喋る。「ぼくが入ってもぼくが抜けてもその場所が変わっちゃうのがだめ」と言う。
この1匹は仲間とずれているのです。そして「わたし」もときどき、「わたし」の中でずれてしまうのです。
この夜も、「眠ることができず、いつもよりひどいずれがやって来る心もちになっていた。これはいけないと食器をみがいたりしたが、やり過ごせないようだった。」
そこで、梨畑まで歩くことにして外に出ると、寝つきの悪い1匹がついてくる。そのうち、煩わしくなって追い払ったら、そのままどこかへ消えて3〜4日も帰ってこない。「わたし」は、そんな1匹が気になってしかたないのでした。

梨の収穫も終わりに近くなった最後の日、主人の原田さんから、あの3匹はシーズンが終ると消えてしまうんだと知らされます。
「だからさ、虫みたいなもんなんだって。かぶと虫、飼ったことなかった? 夏が終ると死んじゃうでしょ。それと同じ」。

その日、夜になって激しいずれがやってくる。「空気や地軸がずれる感じではなく、からだ全体がすっぽり抜けてしまうようなずれだった」。
寝ている自分と立ちあがった自分がいる。横たわっている自分のからだを残したまま、さかんに梨畑に行きたがる3匹を肩に乗せて外に出る。
梨畑に着くと、活発な2匹は木のてっぺんに登って、木守りの梨をかじりはじめます。

引っ込み思案の1匹は、「こわい」と言いながら肩の上で震えている。
「震えが伝わる部分があたたまって、ゆるんでくる。肩から胸から腹から腕から足まで、次第にゆるみはじめる。湯に入っているようだった」。
やっと1匹も幹にとびうつって木守りの梨を食べはじめる。そうやって3匹は、梨の木の白い瘤になってしまいます。
「わたし」は、瘤に引き込まれそうになるのを必死で振り払って、重さというものをなくしたからだで飛んで帰ります。

翌日、「わたし」は原田さんを訪ねて、雇ってもらった礼を言い、他の仕事を探すつもりでいることを告げる。
帰りがけに梨畑を通るが、すでに、どの木に白い瘤がついているのかわからない。梨の木の1本をとんとんと叩いて、いろいろとありがとう、と呟く。
秋空のような爽やかな読後感が残ります。
くまの神様(『神様』)、恋をする河童(『河童玉』)、壺の中で生きる娘(『クリスマス』)、人魚への不思議な偏愛(『離さない』)など、日常生活から少しずれたところに、かなしい真実があったりする。
この秋は、すっかり川上弘美の世界にはまってしまいました。

秋になって急にできた周りの静寂が、ふと広い空間に感じられます。
この空間にいろいろなものが水のように沁み込んでくるのです。今まで聞こえなかった微かな物音であったり、微かなこころの綻びであったりします。部屋でひとり居ると、天井のしみや障子の破れなどが見えてくるようなものです。
日常生活での、自分自身の中にできてしまったずれや、他人との関わりでできてしまったずれなど、小さなものかもしれないけれど、あまり見詰めすぎると、小さなずれが亀裂になってしまうこともあります。

ずれたままで、ぴたりと重ならないままでも、覚悟を決めて、ぶれた感覚に浸ってみるのも、ときには快いものだったりもします。いえ、心地のいい方へ自分を持っていこうとすることも、大事なことなのかもしれません。
そのうち、季節の方で少しずつずれながら、秋もしだいに深まってゆくことでしょう。そしてやがては、それぞれの虫たちも小さな羽を閉じるのです。




(写真はねこじゃらし。)

(2006/10)



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