・キンモクセイの風・


窓を開けると、ひんやりとした風が微かに甘い香りを含んでいる。静かに季節が動いていたことを報せてくれる懐かしい風だ。
子供の頃、家の庭に大きなキンモクセイの木があった。
花の季節、大きく息を吸い込むと、甘い香りに体じゅうが酔ったようになり、何か新しいことが始まり、新しい日が始まりそうな気分になったものだ。
ちょうど台風の季節でもあった。
台風が去った翌日は、近くの山に入って栗の実を拾う。やわらかく堆積した落葉の間に、茶色い山栗の実が乱雑に落ちていた。
わが家で飼っていた犬は、落葉の下から栗の実をさがしだすのが特技だった。掘りだした実を口に加えて主人のところに持ってくると、前足をばたばたさせて激しくしっぽを振る。その様子は、自分の仕事ぶりを自慢しているようにみえた。
山栗は型は小さいが甘い。
秋は運動会のシーズンでもあるが、徒競走の前に栗を食べると、走る時に転ぶと言われたりした。栗と転ぶこととにどんな因果関係があるのかは判らないが、いかにも転がりやすそうな形をした栗の実からの連想だったのかもしれない。団栗(どんぐり)ころころという童謡もある。
運動会の行われる日は、早朝にど〜んと一発の花火が上がる。走ることが苦手だった私は、運動会はあまり好きではなかったが、この花火の音で背中を押されて家を出る。連日の炎天下での行進や競技の練習から、今日でやっと解放されるといった、不まじめな思いにもあと押しされていた。
夏休みの間、すっかり放縦な生活にだれきっていた私は、秋の新学期の学校生活になじむのに時間がかかった。現代であれば、登校拒否を起こしそうな子供だったから、連日の運動会の練習の中で、否応なく学校生活に慣らされていったようなものだ。
夏休みが終わって運動会が始まるまでの間に、怠けていた私の体と気持は、いつの間にか普通の子供になっていき、普通の学校生活を送れるようになっているのだった。その頃のそんな感覚が、キンモクセイの風の中に、少し苦々しく、しっかり記憶されているような気がする。
太い竹の棒に藁(わら)を巻きつけた柱に、杉の葉を挿して作った大きなアーチ、大量の藁を敷きつめた応援席、部落対抗のリレー競技、熱狂と歓声の一日が終わって、小学校の坂道を下って下校する頃には、何かをやり終えた充実感のようなものさえ味わっている。少し肌寒くなった夕方の風には、キンモクセイの香りも混じっていたかもしれない。そのようにして一つの季節が動いていた。
子供の頃の、あのキンモクセイの木は、今はもうない。家が解体された時に切られてしまったらしい。
私が今住んでいる近所にもキンモクセイの木があったが、昨年切られてしまった。根の部分が地中で配水管を圧迫しているということらしかった。私はこの木に特別な親近感をもっていたから、香りごと失われてしまった木のことを思うと残念でならなかった。
けれども、今年も懐かしい風は吹いてきた。
どこから運ばれてくるのか、どこかでまた、キンモクセイの花は咲いているのだろう。記憶の中を吹いてくるような、弱くて微かな甘い味がする風である。


(写真は秋の空と雲。上空では強い風が吹いているのかもしれない。)
(2003/10)



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