・福笹・


この春、娘のいちばん上の子供が中学生になる。もう、それだけの歳月が流れたのかと感慨深い。

大阪では、正月10日は十日戎で各神社はにぎわう。
七福神の恵比寿神が主神で、神社の境内では福笹を売る店が並ぶ。商売繁盛だ笹もってこい、と威勢のいい囃子言葉は、商人が多かった土地柄が生んだものであろう。浪速ではなにはさておき、金もうけが大事なのである。
この日、大阪でいちばん人が集まるのは今宮戎神社だが、どういうわけか「えべっさん」(恵比寿さん)は耳が遠いとされている。願いごとは大声を張り上げて叫ばなければ通じないのである。
大阪のおばちゃん、はいまや全国区であるが、おばちゃんに負けずド根性の開けっぴろげタイプの大阪人が、みんなでわれ先に大声で叫び散らしたのでは、えべっさんもたまらず耳をふさぎたくなるのではなかろうか。

いつの正月だったか、娘が福笹を買ってきたことがある。中学生にもなろうという、そんな子供が生まれるよりも前の話だ。
娘はもちろん商売繁盛などではなく、良縁祈願でもしてきたのにちがいなかった。
その福笹の笹にカマキリの卵がついていた。福笹はリビングの天井近くに飾ってあったのだが、部屋を暖房しているせいで、まだ外は冬なのにはやばやと孵ってしまったものらしい。
はじめのうち、それがカマキリの幼虫だとは気がつかなかった。部屋の中で蚊のような虫が飛び交っているのを、なんとなく気にはしていたのだが、日ごとに数を増して、いつのまにか部屋中いたるところで、その小さな虫が動き回っている。手にとってよくみると、それは小さなカマを持ったカマキリの幼虫だった。
どうしたんだろう、と家族みんなが気味悪がっていたが、よく注意していると、幼虫は天井の方からふわっと落ちてくることに気がついた。そして、なんと福笹にたくさんの幼虫が綿毛のように群がっているのを発見したのだ。まさに孵ったばかりのカマキリの幼虫が、次々と飛びたつ順番を待っているようだった。

OLだった娘は夜しかいなかったが、トンボだろうがセミだろうが、虫というものはどれも嫌いだったので、この環境はとても我慢ができなかったようだ。
福笹ごと外へ出してしまえと娘は訴える。しかし、そんな寒いところへ出してしまったら、カマキリは即お陀仏なのは目に見えている。かといって、このままリビングをカマキリに明渡すわけにもいかず、なんとなく曖昧な態度をとり続けている私に、娘はついにキレてしまって、
「私とカマキリとどっちが大事やの」と言い出す。
決心がつかない私は、娘をからかう気持もあって、
「カマキリの方が大事や」などと言ってしまった。
「それなら私が出てゆく」と娘。
えべっさんも、とんでもない福の神を持ち込んでくれたものだが、そんな騒動のあった年の秋に、娘は本当に家を出てしまった。
カマキリの幼虫がどうなったかは覚えていないが、その後、春から秋にかけてわが家では、カマキリ騒動がずっと尾を引いたみたいになったのである。

その夏のある日曜日の朝、リビングの床に新聞を広げて読んでいた私の背中に、娘が突然抱きついてきたことがあった。
すっかり成長した娘が急に子供に戻ったみたいで、その落差に戸惑って私は言葉も出なかったのだが、娘も何も言わずに、私の背中に体を預けたままでいるものだから、娘が無言でそうしていることにも、いっそう私は戸惑ってしまった。
それはほんの短い時間だったかもしれないし、娘は起きてきたばかりでまだ寝ぼけていて、発作的に親に甘えたい気持がおきて子供に帰ってしまったのだと考えると、それほど大した行動ではなかったのかもしれなかった。
けれども、娘が言葉を発しないことで、娘の体が私の背中に何かを伝えようとしているようにも感じられた。娘が伝えたいことがまだ言葉にならないものかもしれないと思うと、そのような重さのあるものを、私も言葉で確かめることができにくいのだった。
結局、娘のそのときの行動の意味は曖昧なままで残された。何か言いたいことがあったのかもしれないし、あるいはただ衝動的に甘えてみたかっただけなのかもしれなかった。

ただ、振り返ってみると、意味があったかなと考えられなくもなかった。
その頃、娘のお腹には小さな命が宿っていたのだ。娘がそのときに何かを伝えたいことがあったとすれば、そのことではなかったかと、あとになって思った。

娘は高校を卒業するとすぐに、ある銀行に勤めていたのだが、同じ支店の同僚との恋愛関係が発展し、そのことが銀行としては不都合なことらしくて、支店長や次長がわが家に訪ねてきたりで、結局、娘は退職させられてしまうことになった。
そんなことになってしまった相手とは結婚させるわけにはいかないと、妻はずっと頑張っていたが、最終的には、娘の気持は変わらないということで、結婚式の準備なども娘たちふたりが進めるうちに、周囲では祝福するほどの気持が熟さないまま、秋には結婚ということに落ち着いてしまったのだった。
披露宴で、私が花嫁の父としてのスピーチを終えて席に戻ると、妻をはじめ家族がハンカチを顔に押しあてて泣いていた。私もその様子をみると、急に気がゆるんだこともあって涙が溢れてきた。
ここに至ってもまだ、割り切れない悔しさのようなものが残っていた。職場ではよほど悪いことでもしたように非難され、さして正当な理由もなく職場を辞めさせられ、そのうえ、ひとりの男にあっという間に娘をさらわれてしまったような、複雑な思いが未整理のままに残っていたのだった。

年がかわり春がきて、娘は男の子を産んだ。
娘は乳がよく出て、赤ん坊が欲しがるままに飲ませたものだから、子どもは標準をはるかに超える体重となり、夏がきて、相撲取りのしこな入りの浴衣など着せた時には、まるで小さな関取のように可愛かった。
十日戎の福笹のカマキリ騒動に始まった年だったが、騒ぎが収まってみると、やはり、えべっさんはわが家に小さな福の神を運んでくれていたのかもしれなかった。




(写真は梅に先駆けて咲き始めた蝋梅の花。香りがいい。)

(2005/02)



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