・あんたがたどこさ・


ぼくが子どもの頃は、子どもたちはみんな、家の前の道路で遊んだものです。
ゴム跳びや瓦蹴りは、男の子も女の子もいっしょになって遊びましたが、野球はもっぱら男の子の遊び、鞠つきは女の子の遊びと決まっていました。ぼくも鞠つきには何回か挑戦しましたが、どうやっても女の子にはかないません。女の子が手毬唄を歌いながら鞠をついているときは、側でぼんやり眺めていることになります。

    あんたがたどこさ 肥後さ
    肥後どこさ 熊本さ
    熊本どこさ  せんばさ
    せんば山には たぬきがおってさ
    それを猟師が 鉄砲で撃ってさ
    煮てさ 焼いてさ 食べてさ
    それを木の葉で ちょっとかぶせ

鞠つきがめだって上手な、エミコという女の子がいました。
手毬唄の最後で、「それを木の葉でちょっとかぶせ」というところで、スカートの中にひょいと鞠を隠します。このときに鞠を落としてしまうと駄目なのですが、エミコの動作はすばやかったし、決して鞠を落とすこともありませんでした。
ただ、エミコはパンツを穿いていなかったので、鞠にスカートをかぶせるときに、スカートの中が丸見えになってしまうのでした。けれども、そのことで誰もエミコをからかう者はいません。彼女の報復が怖かったからです。

    せんば山には
    たぬきが おってさ

この唄の「せんば山」のところを、ぼくは最近まで「てんば山」だとばかり思い込んでいました。てんば山のてんばは、お転婆の転婆だったのです。パンツを穿かないエミコにぴったりの唄だったのです。

エミコは父親のことを「おとさま」と呼んでいました。
ほかの子どもたちは「おとうちゃん」とか「とうちゃん」が普通だったから、エミコの「おとさま」は特異でした。お転婆娘にしては、言葉だけが丁寧すぎるような気がしたのです。
エミコのおとさまは隠坊でした。その頃は、死んだ人を焼く仕事がまだ残っていたのです。
ぼくの祖母も伯母も、おとさまの大八車で山奥の焼き場まで運ばれ、夜中に薪で焼かれました。そして翌日になって、おとさまが大きなかまどからごそっとかき出した灰の中から、身内のものが骨を探し出して拾い集めるのです。焼き場の片隅には、残って捨てられた骨や灰が山積みになっていました。

エミコには兄貴がひとりいて、この兄貴も父親のことを「おとさま」と呼んでいました。母親は早くに死んだらしく、父親と3人で小さな汚い家で暮らしていました。
エミコの兄貴と父親は、よく喧嘩をしていました。兄貴が竹の棒を持って父親を追いかけると、その兄貴をエミコが追いかける。3人で大騒ぎしながら村の道を駆け回るのです。まわりでは、また始まったという感じで、誰も止めるものはいませんでした。

ずっとのちに、ぼくが東京で学生だった頃、エミコに頼まれ事をしたことがありました。
彼女は中学を卒業すると東京で女中をしていたのですが、そこを辞めたときに、最後の給料を貰っていないので、ぼくに受取ってきてほしいというものでした。
最後の給料をもらっていないということは、なにか訳ありな辞め方をしたような気がして、ぼくは気が進まなかったのですが、なにせ、お転婆はいつまでもお転婆ですから、気の弱いぼくは断りきれなかったのです。
エミコからもらった住所のメモを頼りに、成城という街を半日歩き回りましたが、ついに目的の家を見つけられず、そのことをハガキで彼女に連絡すると、あれは住所が間違っていたということで、ぼくは無駄足をしてしまったのですが、そのとき彼女からきたハガキは誤字だらけで、それでいて言葉づかいだけがばかに丁寧だったのを覚えています。

エミコのおとさまは、それからまもなく死んだということでしたが、隠坊が死んだら誰が焼いたのか、その頃にはもう、立派な火葬施設ができていたのかもしれません。
それ以後、エミコにも彼女の兄貴にも会ったことがありません。

てんば山がせんば山だったということを知ったとき、ぼくは可笑しかったと同時に、すこしがっかりしました。パンツを穿かない少女が鞠つきをしているのは、やはり、せんば山よりもてんば山の方がふさわしかったからです。
でも今では、『あんたがたどこさ』などという手毬唄を知っている人も、もう少なくなったのではないでしょうか。

そうなんです。
肥後って熊本のことなんですよ。
それと、てんば山では、パンツを穿いたタヌキが鞠をついていたんです、よ。




(写真は、まるい綿毛になったたんぽぽ。)

(2006/05)



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