・どこかにいい国が・


いま、どこかにいい国があるだろうか、と考える。
地球上のいたるところで、突然、爆弾が炸裂する。いくぶん地上から離れた高層ビルの最上階だろうと、南極に近い岬の先端だろうと、砂漠のど真ん中だろうと、選ばれた神のメッカだろうと、どこであろうと、ドカンと一瞬にして廃墟になってしまうかもしれないのだ。
本当にいい国は、どこかにあるのだろうか。

私はあまり外国を知らないから、海を越えた国々のどこかに、いい国があるのかどうかはわからない。
私のいい国は、もっと近くにある小さな国、日本の山奥にある小さな辺境を想像してしまう。
私が漠然といい国を思い浮かべるとき、背景に一編の詩がある。山村暮鳥(1884-1924)という詩人の次のような短い詩である。
    また蜩(ひぐらし)のなく頃となった
    かな かな
    かな かな
    どこかに
    いい国があるんだ
             (『ある時』)

ヒグラシがかなかなと鳴いているような国(郷)である。
都会で暮らしていると、ヒグラシの鳴き声を聞くことはできない。都会にいるセミはアブラゼミやクマゼミである。車や街の騒音に負けまいとするかのように、けたたましく鳴いているセミだ。
私はアブラゼミやクマゼミの鳴き声は嫌いではない。いかにも真夏の明るさと熱気を演出するような、元気で爽やかな鳴き声である。都会という環境が騒がしいだけなのである。都会では、昆虫も気ぜわしく生きざるをえないのかもしれない。

ヒグラシがのどかに鳴いているような、空気が澄んで静かな山村の風景は、ときに理想郷にみえる。そんなところは、いい国にちがいないと思ってしまう。
ヒグラシの鳴き声は淋しい。こまぎれに空気を刻んでいるような儚さがある。大きな樹があり、深い日陰がある。冷たい清水が流れ、ひんやりした風が吹いている。そんな風景が浮かんでくる。

現実には、そんないい国などないのかもしれない。
いつか、どこかで聞いたヒグラシの声を回想しながら、汚れたものがすべて浄化されたような、懐かしくて美しい風景の断片をつなぎ合わせて、夢想の中でいい国を作り上げているのかもしれない。
ヒグラシの声もまぼろしである。澄んだ風景もまぼろしである。まぼろしの中に浮かんでは消えるもの、そんなまぼろしのいい国をさがしているのかもしれない。

もちろん、世界中のあちこちにいい国があればいいと思う。そういう平和な時代を願いながら、ただひたすらに、かなかなという声が聞こえてくる方へ耳を傾けている。




(写真は近くの自然公園で。なんの花だろう、と思いながら通りすぎる。)

(2004/07)



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