・ぼくたちの神様・


以前に紙というものに拘って、シリーズで詩を書いたことがあります。
そのときに、『ぼくたちの神様』という詩を書いて、あるウェブの詩サイトに投稿したのですが、ぼくの非力さもあって、意図したものが読み手にじゅうぶん伝わらなかったようで、そのことがずっと気になっていました。
その詩の中で、ぼくは身近(?)な神様に登場してもらいました。具体的には奈良にある3柱の神様、すなわち3か所の神社がイメージの中にありました。

    神様はとにかく偉いから
    紙と鋏でひとも車もつくってしまう
    神様がつくるものはぜんぶ神様だから
    年寄りはひらひらの形代(かたしろ)にお祈りする
    かしこみかしこみ
    五穀豊穣 家内安全 交通安全

この詩の背景には、奈良吉野の丹生(にう)川のそばにある丹生川上神社下社という神社があります。
毎年、暮れになると神社から1通の封書が届き、中には白い紙を人形(ひとがた)に切ったものが幾枚か入っています。ある時期からは車の形に切られたものも入ってくるようになりました。これは車形とでもいうのでしょうか。いや形代(かたしろ)と言った方が正確なのでしょう。
神社からの説明書きによると、この形代1枚ずつにそれぞれ家族の名前を、車の形代には車のナンバーを書き、息を吹きかけるようにとのことです。これに祈祷料を添えて返送すると、神社で新年のお祓いをしてくれるというものです。
形代は半紙を人の形に切っただけの簡単なものですが、これをもしかしたら、神職とその家族がハサミを持って手作業で作っているのだろうかと想像すると、不思議に神様が身近に感じられてくるのです。

この神社は、丹生川のそばにあるので丹生川上神社と呼ばれるようになったそうですが、丹生とは朱のことで、昔は水銀から朱の色を採取したらしく、このあたりでは水銀が採掘されたのでしょう。
記録によると、この神社は神武天皇が東征のときに親祭されたとあり、のちの676年「人声の聞こえざる深山に宮柱を立て祭祀せば、天下のために甘雨を降らし、霖雨を止めむ」との神託により創建されたということです。
雨を降らせたり、降ることを止めさせたりできる神様だったんですね。この神様は、いまでも人声のあまり届かない吉野の奥山に鎮座しています。

そのような山の奥の神様に、ぼくの息を吹きかけた形代が届き、家内安全、交通安全と神様の声を託されるのです。
すこし時代遅れのような郵便というスローな手段で、1枚の薄い紙の形代は人と神様をやさしく仲介してくれるのです。
神社の境内には、いのちの水「御食(みい)の井」という名水がありますが、ぼくがこの水を飲む機会は5年にいちどくらいでしょうか。あとは紙の形代に万事お任せの不信心者です。 丹生の神様、ごめんなさい。かしこみかしこみ。

      *

    秋祭りが終わると
    もう神様もお帰りなさった と言って
    神様は淋しそうに落葉を掃いている
    神様はどこへお帰りなのですか
    それはね山の奥だよ ほれ
    山はもう沢山の神様で真っ白になっていた
                 (『ぼくたちの神様』)

この神様は吉野山の神様です。
吉野といえば桜ですが、その時は秋でした。ちょうど秋祭りのさなかで山の上は賑わっていました。修験者や行楽客でごったがえす山上の道を、下千本の辺りから上千本の辺りへと抜ける間に、つるべ落としの秋の陽は落ちて、吉野山のいちばん奥深くにある金峰神社についた頃には人影もなく、神社の境内では神職がひとりで落葉を掃いていました。
祭りの賑わいのあとでは、ひときわ淋しい風情です。
「ここは静かですね」と言って挨拶すると、
「もう神様もお帰りになりましたから」と神職の応えです。
神も人もいなくなった山の上の淋しい空気があたりに漂っていて、神職の言葉は、なるほどと納得させるものがあり、思わず頷いてしまいました。
夕暮れに追われるように、そそくさと神社の石段を下りたのですが、その時になって、神様はどこへ帰ってしまったのだろう、という疑問が起きてきたのでした。

吉野山は修験者たちの奥駆けの道の北の入口でもあります。ここから奥へ、大峰山を経て山々がどこまでも深く連なっています。
金峰神社からすこし脇道を入れば、西行庵があります。
「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき」(『山家集』)
西行が捨てたものは、北面の武士という身分と家族だけだったのでしょうか。彼の歌にみる桜への思い入れは恋に似ています。
西行が吉野の孤庵で過ごしたのは3年ほどですが、同じ頃、義経主従の逃亡の旅が雪の吉野から始まります。
さらに150年ほどのち、後醍醐天皇がここに吉野朝廷(南朝)を打ちたて、50年余りにわたる南北朝時代が続くのです。後醍醐天皇の皇子である大塔ノ宮護良親王も比叡山での僧の身を捨てて挙兵しますが、鎌倉方の追捕が厳しくなり、熊野、十津川へと身を隠すことになります。

十津川はなぜか逃げてゆく人々を吸引し、吸収してしまう秘境のイメージがあります。吉野の奥のさらに奥の山ばかりの国で、奈良の大和盆地の国中(くんなか)からみて遠(とお)つ国、あるいは遠(とお)つ川ということで十津川という地名が生まれたそうですが、いくつもの高い山に隔てられて、十津川は奈良の国中や吉野からも遠い国なのです。
維新を夢みて決起した天誅組の行動は、時代を先取りしすぎて頓挫し、これも十津川の奥へ追われることになります。また、そのあとの勤皇の志士の中にも、新撰組に追われて十津川の最奥まで逃げた者もいました。
壁のような果無山脈に連なってゆく十津川の深い山塊は、人が身を隠すには絶好の場所だったのかもしれません。

奥駆けではないけれど、かつてぼくも十津川の山道を車で駆け回った時期がありました。
その頃は仕事に追われ、日々の生活にも疲れていました。ぼくもまた日常生活から逃げ出そうとしていたのです。
車が離合することもできないような狭くて曲がりくねった林道を、ただ走るために走っていました。激しく切り替わるギヤとエンジンの響きが、ときにはわが身の悲鳴にも聞こえて、峠ごとに車を止めては深呼吸をしないではおれませんでした。
越えても越えても山が尽きることはなく、そんな山中で、ときどき吉野の神様のことが頭を掠めることがありました。あの吉野の神様が帰っていったのは、こんな山奥だったのだろうか。
それでも、ついに神様に出会うことはありませんでした。
いや、もしかしたら、出会ったけど気がつかなかっただけなのかもしれません。それほどに、吉野の奥は深かったのです。

     *

大阪平野と奈良盆地を区切るように、南北に山塊が連なっていますが、その中のひとつに葛城山があり、この山の奈良県側の麓に、地元では「いちごんさん」と呼ばれている一言主神社があります。
境内には樹齢1200年の大銀杏があり、ぼくの詩『ぼくたちの神様』にも登場してもらいました。

    かなりむかし
    子どもの頃には神様がたくさんいた
    崩れそうな石段を登ってゆくと
    空がだんだん近くなって神様が降りてくる
    樹齢千年の銀杏の樹のてっぺんに
    神様はいらっしゃるのだ と神様が言った

司馬遼太郎の『街道をゆく』には、この神は葛城山の土着神であり、ひょっとすると、葛城国家の王であったものが神に化(な)ったものかもしれない、と書かれています。
また『古事記』や『日本書紀』には次のように記述されています。
雄略天皇が葛城山で狩をしていると、自分と同じ顔をした、装束までそっくりな「長人」(のっぽな人)が現れました。天皇が「この倭(やまと)では自分以外に主はない。主のまねをするとはなにごとだ」と問い詰めると、「自分は神である。悪いことも一言、良いことも一言で言い放つ神、葛城の一言主の神である」と答えたので、天皇は「現人(あらひと)の神様とは知りませんでした」と詫びてひれ伏したということです。
また、別の記録によると、そのとき葛城の神と天皇は大げんかになり、一言主の神は土佐へ流されてしまったとあります。そして300年後の764年にようやく許されて、再び現在の場所に戻ってきたということです。

このような話の背景には、当時広がりつつあった崇仏思想との軋轢も感じられます。「異国の神はきらきらし」と表現されたように、すぐ近くの斑鳩の地には法隆寺のきらびやかな堂塔伽藍が聳え立ち威容を誇っていたにちがいありません。
その中にあって、蕃神に屈服することなどできるかと、葛城の神は「今の世に至りて解脱せず」(『日本霊異記』)、ひとり反骨を貫いたのでした。

元旦の早朝、ぼくと家族は葛城山の懐を貫通する長いトンネルを抜けて、葛城の神様をお参りするのが恒例になっています。
この鄙びた神社を詣でるのは殆どが地元の人で、元旦の朝といえども静かなので、かえって荘厳さが保たれているところが好きなのです。
石段を登ると神社の境内は高台にあるので、飛鳥の山々の上からのぼってくる太陽を正面に見ることができます。山の稜線がすこしずつ褐色に縁取られてくるのを見つめていると、こちらの気分まで燃え始めるのです。
その頃になると、社殿の回廊には現代の葛城の神も姿を見せて、「今年は晴れていてよかったですなあ」などと感嘆の声を添えるのです。

一陽来復と大書された、ここの神社のお守りには南天の実が入っています。
南天と難転摩滅を掛けているようです。このお守りは節分の日の真夜中に、家の壁のその年の恵方に向いているところに貼り付けることになっています。こうして1年の厄を払うのです。
「悪いことも一言、良いことも一言」
と言い放つ葛城の神の声は、今でもなお、天に届くのでしょうか。




(2006/01)



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