ユー アー マイ サンシャイン




戦争が終わった、と大人たちが言った。
世の中は大きな変動が始まっているにちがいなかった。けれども、7歳の私にとって、戦争が終わったという実感はどれほどあっただろうか。世の中が変わり、新しい何かが始まっているとしたら、それは単に幼児期の成長過程の中で起きている、私自身の出来事にすぎなかったのではないか。ただ、あらゆることが急速に変化しているのだった。
それまで、どこの家でも父親というものはいないのが普通だった。ある日、見慣れない大人の男が部落の住民に加わるのだが、大人たちは大騒ぎして互いに懐かしがっている。私の家でも、父が戦地から帰ってきたが、私はなかなか父に話しかけることができず、父親というものに慣れなかった。それはやはり戦争というものがあり、父と子の間に空白があったからだろうか。
その頃、砂田の家に若いお嫁さんが突然あらわれた。私の印象はそんな形をしている。
彼女は若くて快活だった。私たち甥や姪にとっては、弥市兄ちゃんが1番上の兄であったのと同じように、彼女はいきなり1番上の姉になった。近所の誰もがいきなり仲間に取り込まれてしまう、彼女はそんな気さくな性格だった。
彼女は英語の歌を歌ってみせた。
  「ユー アー マイ サンシャイン
   マイ オンリー サンシャイン」
初めて聞く英語の歌は、軽快でとても明るかった。
ユーはあなた、のことだとマサ子さんは言った。サンシャインはお日さま、太陽だという。まぶしいような、ハイテンポなアメリカの歌だった。彼女の住んでいた広島はアメリカに近いのだろうかと思った。言葉の語尾につく「――シンシャイ」という歯切れのいい広島弁と「サンシャイン」という英語の響きが似ていた。
ハロー、グッバイ、チューインガム、パーマネント、新しい言葉が入ってきた。
進駐軍のジープが次から次へと猛スピードで前の道路を走り抜けていく。そのスピードと、ジープという新しいクルマのかたち、途切れることなく続く台数の多さ、初めて目にするものばかりだった。
ジープは夜中に地響きをたてながら走り抜けることもある。思わず目が覚めて耳を澄ましていると、疾駆するエンジンの音が波のように続いていく。家の前の道路は大分と熊本をつなぐ幹線道路になっていたので、連日のように進駐軍のジープが走り抜けていくのだった。
ジープのオープンな構造は、乗っているアメリカ兵の顔や服装がはっきり見えた。始めのうちは恐くて家の中に隠れていたが、そのうち慣れて、ハローと声をかけることをおぼえた。子供達はハロー、ハローとジープに向かって叫んだ。ハローは英語だったので、外国の言葉を発する新鮮な喜びがあった。
マサ子さんが広島から持ってきた琴という楽器が珍しかった。
琴の前に正座する時のマサ子さんは、すべての動作が静かに黙って行われるので、すっかり別人になっているようだった。彼女は右手の指に固い琴の爪をひとつずつはめていく。いつもはおおらかな彼女が、琴爪を指にはめていく時はかなり神経質になって、しっかり指の具合を確かめている。準備が終わると一度呼吸を整えたあと、琴の上に体を倒すようにして、琴爪をはめた右手は静かに弦をはじき、あるいは激しくかき鳴らし、琴爪のない左手は、ときどき弦を押えるようにして音に微妙な響きを添える。聞き慣れない音曲に包まれて私たちは戸惑っていた。
  シャッテン シャシャテン シャシャコロリン
  シャッテン コロリン シャン
マサ子さんの師匠は生田流の目の見えない人だったらしい。厳しい叱責のたびに琴爪が飛んできたという。よく聞いていると、爪ではじいて出てくる音と口から発する声の響きがよく合っていた。彼女の口まねをしているうち、次第に琴の響きに慣れていくのだった。
ときには爪をはめて弦に触らせてもらう。琴の爪は右手の3本の指に固くはめる。手元から向こうの端まで13本の弦の上を、爪を転がせていくと不思議な音階だった。盛り上がった琴柱の右側の弦を爪で弾き、直後に同じ弦の反対側を左手で押えると、弾いた音が波打つように反響して「ウ〜ウン」という音になる。マサ子さんに教わった面白い奏法のひとつだった。
い砂田家の最初の子どもは産まれるとすぐに死んだ。心臓が止まったり動いたりをくり返した。心臓が止まるということは死ぬということで、再び動き始めるということは生きているということなのだった。人は死んだり生き返ったりできるものなのか、と不思議だった。けれども最後は心臓が止まったきりで、それはすなわち、人が完全に死んでしまうということだった。
赤ん坊の棺は小さかった。強いおしろいの匂いに包まれていた。棺の中で、顔が真っ白に化粧されて、きれいな女の子の衣裳を着せられていたから、赤ん坊というより小さな人形が置いてあるようだった。
その頃、砂田家のまわりでは相次いで4人が死んだ。
大江の伯母が夏の暑い日に33歳の若さで死んだ。5人の子どもが残され、1番小さな子どもはまだ赤ん坊だった。その翌年、河野の伯父が死んだ。伯父は復員後、砂田の裏庭の作業小屋でいつもミシンを踏んでいた。もともと四国で洋服屋をしていたのだった。ミシンの前に小さな窓があって、私はときどき窓の外から伯父が作業するのを見ていた。魚釣りが好きだった伯父は、川で体を冷やしたのがきっかけで喀血して死んだ。6人の子どもが残された。翌年、祖母も死んだ。金沢のいとこが病死したことを知ったのもその頃だった。
当時の葬儀は、近所に住んでいた池永さんという隠坊が棺を車力(大八車)に乗せて引っぱっていく後から、身内の者がそれぞれ幟や花などを持って1列に並んで焼場(火葬場)まで歩いていくのだった。焼場は山の中の寂しいところにあって、焼場に着くと隠坊が棺の前で簡単なお経を上げ、みんなはまた引き返していく。後には隠坊が1人残って薪で棺を焼くので、骨拾いは翌日のことになる。
小学校の教室の窓から焼場の煙突が見えた。人を焼いている時は煙りが見えるので、教室の中はざわついた雰囲気になる。風向きによっては髪の毛が焼けるような異臭がしてくることもあった。
その後、マサ子さんには3人の子どもが産まれた。
その頃、近所は子どもが多くてにぎやかだった。堀切という、切通しと切通しに挟まれた小さな谷間のようなところに、家は10軒ほどしかなかったが、子どもは30人ほどもいた。道路は子どもたちの遊び場で、1日中、子どもたちの喚声が絶えることはなかった。少し大きい子どもは小さい子どもを負ぶって遊んでいた。中には学校まで連れていく児童もあり、授業中も子守をしている子がいた。学校へ弁当も持っていけない子どもも多く、破れたり汚れたままの服を着ている子どももたくさんいた。けれどもみんな夢中で遊んでいた。
砂田の家では、道路に面した部分を店舗にして、駄菓子を扱う商売を始めた。
もともと饅頭屋をしていたのだから、店舗にするには都合のいい構造になっていた。店の奥の方には少し高いところにアメ玉の入ったガラスの瓶が並べられ、前の方にはガラスの蓋がついた四角い箱がいくつも置かれた。おもに子ども相手の商いであるが、子どもの数も多かったから商売にはなりそうだった。
商品の仕入れはマサ子さんがした。
細長いひょうたん形のガラス瓶に入ったニッケ水、ビー玉の栓がついたラムネ、黒砂糖でくるんだクロボウ、細い竹の棒がセットになった風船ガム、ザラメのついた大きなアメ玉、やわらかくて歯にくっつく芋アメ、マーブル、ドロップ、ビスケット、生長堂のパン……。
中でも、子ども達が熱中したのは赤い箱の「カバヤキャラメル」だった。キャラメルよりもオマケの方に興味があった。箱の中には、ターザンやチーターやカバなどのカードが入っていた。カバヤキャラメルだからカバが最上のカードだった。カバのカードが入っているとキャラメルをもう一箱おまけにもらえる。カバのカードは丸ごと1匹の場合もあるが、頭だけとか、胴体とか、小さな尾っぽのついた尻の部分とかで、カードが1匹の形に揃うとキャラメルと引き替えてもらえた。いつのまにかハズレのカードがいっぱいたまったが、のちにはカバヤ文庫というのもあって本と交換してもらうこともできた。私は本と交換したことがあるが、その本の名前も忘れたし、読んだ憶えもない。ただカードをためて交換する楽しみだけがあったのだろう。
いちど、カバの形をしたカバヤキャラメルの宣伝カーが回ってきたことがある。子どもたちは何日か前からその日を楽しみにし、店の前にカバ自動車が止まった時は大騒ぎだった。
俳優のブロマイドも人気があった。一枚ずつ袋に入っていたので、開けてみなければ誰のブロマイドが入っているかわからなかった。あこがれの人気俳優のブロマイドが古新聞で作った袋に入っていたのが、いま考えるとおかしい。大人たちの間では佐分利信という男優が、子供たちには美空ひばりが人気だった。この2枚のブロマイドは当たる確率も高かったのか、私の家には美空ひばりの写真が何枚もあった。
マサ子さんの店では、夏はカキ氷をした。手回しのカキ氷機で大きな四角い氷を砕いてガラス鉢に受けていくと白い山ができた。イチゴやレモンの蜜の味に混じって、スプーンの錆の味がかすかにした。そして冬になると、同じ場所が回転焼きに変わった。
近所の子どもたちが成長するにつれ、マサ子さんの店の客も次第に減った。
その頃には、玉来の町中にも2軒のパチンコ屋ができて、マサ子さんはそこの常連になりかかっていた。いとこの摂子に店番を任せて、彼女はパチンコの玉をはじいていることが多くなった。
私に丁稚奉公の話が出ていた頃、マサ子さんは広島の兄がやっている写真館の見習いに行くことを私にすすめたりした。父がむかし使っていたドイツ製の蛇腹の写真機を、いつも私がいじっているのを彼女は見ていたのだろう。私の気持ちは丁稚奉公よりも写真館の方に動いていた。
結局、私は大阪にも広島にも行かず東京へ出てしまったのだが、私がまだ学生だった頃、砂田の一家は広島へ引っ越していった。
夏休みに帰省した時、わが家の縁の下で激しくせき込んでいる犬がいるので見ると、以前、砂田の家で飼われていたスピッツのチョンだった。私はかつて家があったところに行ってみたが、もう昔の喧騒はなく、チョンが走り回っていた道路はいまや人影もなかった。
私はいちど広島へ行ってみようと思いたち、途中下車をしたことがある。
初めての広島だった。
弥市兄ちゃんとマサ子さんは、近くに自動車工場のある府中という所で、若葉食堂という名の大衆食堂を開いていた。夫婦2人だけで切り盛りしている小さな店で2階が住まいになっていた。マサ子さんの明るいしゃべり方や軽快な身のこなしは、堀切で店を開いていた頃と少しも変わっていず、弥市兄ちゃんも厨房と店とを行き来して、客の注文を聞いたり短い言葉を交わしたりしていた。
食事はいくつかある客用のテーブルとイスにすわって、店のメニューの中からご馳走になった。夜は2人の息子と銭湯に行った。弟の方は、私のことをヨッちゃんと言えずヨウちゃんと言った。いとこ同士の懐かしい感覚がよみがえった。
原爆ドームの鉄の形骸を見あげていたら、ピカドンという懐かしい言葉がよみがえった。私の意識の中でピカドンが原爆になり、広島がヒロシマになろうとしていた夏だった。
街が一瞬にして廃墟になった同じ頃、この広島のどこかで、挺身隊の女学生だったマサ子さんと、若くて元気だった軍服姿の弥市兄ちゃんとの、初めての出会いがあったのだ。行進していく連隊の中で、いちばん男前の兵隊を選んだのだと、いつだったか、マサ子さんの口から聞いたことを思い出した。
広島の太陽は暑かった。

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