椀屋さん




祖父の名前が砂田金三郎であるということを知ったのは、ごく最近のことだ。祖父は私が生まれる前の昭和8年に死んでいるから、もちろん私は会ったこともない。わが家には祖父の写真もなく、どんな容貌の人だったかも分からないし、まわりから話にもあまり聞いたことがないから、長い間、祖父のことを考えることもしなかった。
四国の今治の人で、漆器の行商をしていたらしいということ、門司で暮らしていたが、祖母の実家である大分の河野家の跡取りがいなくなり、その家に入ることになったということ、後に聞いて知ったのはそのくらいのことだった。
平成11年5月に、本州の尾道と四国の今治を島伝いに橋でつなぐ、しまなみ海道というのが開通した。四国が近くなった。祖父の名前を知った後だったので、今治という地名も急に身近に感じた。この新しい橋を渡って、私は今治というところを訪ねてみたいと思った。祖父が生まれた土地、幼少期を過ごした場所の、風景や土地を見てみたくなった。
今治では、まず最初に桜井の漆器会館を訪ねた。祖父が漆器の商いをしていたということで、何らかの手がかりが欲しかった。
愛媛で漆器製造が始まる以前に、今治には椀屋さんと呼ばれた漆器行商人が居たらしい。それまで紀州の黒江や根来で作られていた、箱膳や重箱などの庶民向けの漆器を、今治の椀屋さんが椀舟と呼ばれる舟を使って、四国や瀬戸内から九州方面まで行商していた。そんな椀屋さんの一人が、江戸時代になって、これなら地元でも作れるだろうということで始めたのが、愛媛の漆器の始まりらしい。
そんなことが書かれたパンフレットの記事で、私は椀屋さんという言葉に引っかかった。漆器の行商をしていたという私の祖父も、この椀屋さんの一人だったのではないか。祖父が生まれたのはちょうど明治維新の前後であり、十代の終わり頃この商売に入ったとして、今治には明治初期には舟を持った椀屋の親方が19人、売子が123人いた(『今治の歴史』)というから、私の祖父もそんな売子の中のひとりだったとも考えられる。
人形浄瑠璃や長唄、清元でも知られる大坂の椀屋久右衛門も椀屋であるが、椀屋久右衛門こと椀久は、大坂新町の遊女松山の元に通いつめ、節分の豆のかわりに金をまいたといわれるほどの豪商だったわけだが、当時の若者たちが、お椀でひと儲けしようなどという夢をもったとしても不思議ではない。
母から聞いた話では、祖父の金三郎は今治の砂田家の長男で、ほかに弥三郎と勇吉という2人の弟が居たらしい。母も子供の頃、四国の父親の里へ行ったことがあるという。越智郡立花村というのが母の記憶の住所だ。家は街道沿いにあって、雑貨を扱うよろず屋だったようだ。
今は地図を探しても立花村という村はない。たまたま旅行案内の地図に立花というバスの停留所が載っているのを見つけたので、早速そこへ行ってみることにした。むし暑い梅雨の晴れ間の一日に、はっきりした当てもなく今治の町外れを彷徨することになりそうだった。
カーナビをたよりに今治の町を南下した。立花というバス停はすぐに見つかった。車を止める場所もないほどの細い街道だった。私の頭の中では、このバス停の近くによろず雑貨を扱う古い店があるはずだったが、街が何十年も変わらずにあるわけがなかった。私のイメージに近い古びた構えの履物屋があったので、ガラス戸を開けて薄暗い店内に入ってみた。2、3回呼んでやっと奥の方から老人が出てきた。期待しながら訊ねてみたが、このあたりに砂田という家はないと言う。
けれども、砂田という家を探しているのなら、八町という所へ行けば砂田という家はたくさんあるという。よく聞いてみると、この店がある道は戦後に出来た新しい道らしく、八町の方が昔からある古い道だという。履物屋の主人は、靴の支えに使う足型をした白い厚紙に地図を書いてくれた。
位置としては、今治の市街地を南下して蒼社川の橋を渡り、少し道なりに左にカーブするとすぐに信号機の付いた十字路があり、おおよそその辺りが八町ということになる。角に三島神社という古い神社があった。ちょうど神社の前に空地があったので車を置いて、神社の横の道を海とは逆に山の方へ向かった。だだっぴろい平地の中に右手はお寺や墓地が続いている。墓地の石塔に注意していると、砂田という碑銘も見つかったので、この辺りに違いないと見当をつけた。
墓地に入って、一つ一つ墓碑を見ていると、この辺りには越智と井出と砂田という名前が多い。砂田の墓碑にはいずれも菊水の紋が入っている。そういえばいつだったか、まだ饅頭屋をしていた頃、饅頭の上に菊水の紋を押していたという事を母から聞いたことがあった。その時は、菊水は単なる饅頭の模様なのだろうと思ったものだが、それは砂田家の家紋だったのであり、祖父がもっていた郷里へのこだわりだったかもしれないと推量することもできる。
ちょうど墓地の掃除をしている年老いた女性がいたので声をかけてみた。偶然にも、このひとの姓も砂田だった。縁者ではなかったが嫁いできて60年になると言った。
金三郎のことは知らなかったが、弥三郎と勇吉については知っていそうだった。弥三郎というのは北海道に出て行った人だろうという。向こうで事業をやっていて、この土地からも人を呼び寄せて連れていったことがあるということだった。ただ弥三郎の消息はその程度のことしか知らないようだった。
この土地に残った三男の勇吉についてはよく知っていた。勇吉の息子である雅雄が起こした綿糸工場が川の側に建っているという。今治の地場産業はタオル製造である。しかし、その雅雄もすでに死んで、今は息子の代になっている。名前はシカヨシ(鹿嘉)といって市会議員も務めているという。「シカヨシさん」という呼び方に親しみがこもっていて、かなり近い付き合いがあるように感じられた。
教えられた墓地は隣りの区域だった。同じ寺の境内だが、墓域は崩れかかった古い赤レンガの塀で仕切られていた。シカヨシ氏が建立したらしい新しい砂田家の墓碑にも菊水の紋が入っていた。かたわらには、大小の古い墓石がひと所にまとめられていた。もう刻まれた文字も読めない墓石も多い。百年以上も昔、祖父が子供だった頃にはまだ文字の形も残っていたかもしれないと思った。祖父が一緒に遊んだ人たちの墓もこの中にあるにちがいなかった。
墓地と住宅が建ちならぶ一帯は広い平野で、視界の果てをなだらかな低い山が伸びていた。むし暑い初夏の陽炎の下で、金三郎少年や、私の知らない顔の子供たちが遊んでいるのを想像してみた。古い風景だった。
祖父の弟、勇吉の墓石があった。砂田順治三男となっている。戒名は瑞雲義恵居士、没年が不明だが墓石の建之は昭和36年。同じ墓に夫人も入っている。なぜか、どの墓も夫人の方が碑銘の記述が細かい。戒名は智妙明徳大姉、没年は昭和24年5月、本名をナヲといい享年79歳、瀬戸崎村村瀬の曽我直次郎長女と記されている。勇吉の父親である順治の墓石もあった。本家元祖砂田勝治の三男と刻まれている。戒名は慈明義英居士、こちらも夫人の方が詳しい。戒名は慈光妙貞大姉、本名をおまきといい没年は明治29年で享年53歳、旦村の檜垣徳兵衛次女と記されている。
勇吉は順治の三男、順治は勝治の三男、祖父金三郎の出た砂田家はどういうわけか三男が継いできた家系のようだ。寺の名前は常明寺、古義真言宗となっている。四国は弘法太子空海に因縁の宗派が多い。
近所だと教えられたシカヨシ氏の家を、訪ねてみようとしたがなかなか見つからない。表札のかかっていない家が多い。知り合いばかりの集落では、表札の必要はないのかもしれない。庭の奥まで入ると玄関に表札がかかっている。1軒1軒確かめるのは大変なのでやめた。
暑くて疲れてきたこともあるし、時間の余裕がないこともあった。それに、いきなり訪ねていくことに躊躇いもあった。しばらく道端の日陰にたたずんで、ぼんやり辺りの家並みを見つめていた。見慣れた風景のようでもあった。ひとはどこにいても、似たような生活をしているのかもしれないと思った。
はじめての土地に来て、祖父の近親の墓がたやすく見つかったということは奇跡に近いことだったかもしれない。祖父にとっての近しい仏たちに会えたということは、わずかでも祖父の気配を感じられたことかもしれなかった。
そのひとが、この土地を飛び出していったはるか昔。椀舟に乗って九州まで行商に出ていった一人の若者が、河野ツチという私の祖母と夫婦になり、のちに九州の山奥に落ちつくことになったという奇縁。椎茸の商いをしていたらしい店の後をついで、饅頭屋を始めたのはなぜだったのか。今ではさまざまなことが霧の中であるが、もはや私の手の届くところではない。
祖父は寝る時はいつも頭の上にやかんを置いていた、とこれは母の記憶だ。頭の上というのは枕元ということだが、夜中でも喉が渇いて水を欲しがったようで、晩年は糖尿病ではなかったかという。祖父は67歳で死んだ。墓は九州の中央部の竹田というところの草深い山の上の墓地にある。戒名は常樂院宗金信士。

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今治市教育委員会発行の『今治の歴史』という本に目を通していたら、興味のある記事があった。
天正13年(1585年)の天正の陣で、秀吉の命を受けた小早川隆景が伊予に攻め入った折、40余りあった今治地方の城は全て落城した。その中に、名田城という城と須名田城という城があり、名田城の城主は砂田大膳太夫通成で、須名田城の城主は砂田志摩守通成となっているのが目にとまった。砂田という名が、現在の砂田家と何らかの関わりがあるかどうかは分らないが、通成という名前から推して、河野一族に縁があったとは考えられる。ちなみに、この天正の陣において、伊予の国主河野氏は滅亡したと言われている。

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