臼杵のおじさん




堀切地区で戦後、父親が帰ってこなかったのは林家だけだった。
林家の子どもは男が2人、女が3人の5人きょうだいだった。戸外でみんなと遊ぶことが少ない子ども達で、いつも家で親の手伝いをしている感心な子どもたちだと、何かというと林家の子ども達が引き合いに出されるのだった。
長男のナガちゃんがいとこの健夫と同級で、その上に長女がいた。次女がカッちゃん(勝子)で私と同級、更に下に2歳おきぐらいで次男と3女がいた。
学校も戦後の混乱期がすこし落ちついて、新聞のようだった教科書がやっと薄い冊子になり、クラスも男女共学が始まった頃だった。
カッちゃんと私は小学3年生だった。ある夕べ、2人でジャンケンをして遊んでいた。負けた方が相手を負ぶって決められた歩数を歩くという、それだけの単純な遊びだった。いつもと変わらない遊びだったのだが、この時は次第にジャンケンの勝ち負けはどうでもよくなって、負ぶっても負ぶわれても楽しかった。カッちゃんがぬいぐるみの人形みたいだった。カッちゃんに負ぶわれていると、私の腕の中にはぬいぐるみの人形のやわらかい感触があった。カッちゃんを負ぶっていると、私の背中からカッちゃんの重みと温もりがやわらかく包んでくるようだった。私はこの楽しくて快い遊びがいつまでも続けばいいと思っていた。初めての感覚だった。
その日から、その楽しい遊びの記憶とカッちゃんは特別なものとなり、大勢の子供たちと遊ぶ時もカッちゃんばかり意識したし、学校にいてもカッちゃんの行動が気になった。
ある日の体育の時間に、男子と女子で力比べをしたことがある。まだ小学の3年生くらいでは男女の力の差はそれほどなかったと思う。たまたまカッちゃんと対抗することになったのだが、私はカッちゃんに対して意識過剰だったものだから、この時も何となく躊躇しているうちに、カッちゃんがいきなり私の手を引いたので、私は力をだす間もなく負けてしまった。女の子に負かされたことも恥ずかしかったが、それがカッちゃんだったことと、彼女が無心に勝ち誇っているのがショックだった。
戦時中の隣保班の授業の延長で、その年の学芸会はそれぞれの部落ごとに行われた。私の住区である阿蔵地区は林の家が舞台になった。
私は孫田のシゲと同級だったので、2人で唱歌を歌うことになっていた。伴奏ももちろんないのでイチニのサンで歌い始めるのだが、
「そ〜らも みなと〜も〜 よは はれて〜」
と一小節歌い終わると相手が気になり、ふたりとも笑ってしまって歌が途切れる。幾度やり直しても同じことで、とうとう歌は終わらずじまいだった。私はひどい失敗をしたとばかり思っていたが、あとで担当の先生が、あれはあれで面白かったのだと言ってくれたのでほっとした。
堀切というところは狭い谷間の小さな集落といった感じで、玉来の街道筋の続きではあったが、10軒ほどの集落が両方を切り通しの崖によって遮られていた。家は山の窪みのようなところに建っていたから、広い空も広い原もなかった。夕方になると狭い空を、千羽ガラスと呼ばれた無数のカラスが埋めつくしていた。
林の家は集落の東寄りの外れにあり、向かいは「お地蔵さんの山」と呼ばれて、岩肌が露わになったところに、かなり急な10段ほどの石段が刻まれていて、その上に岩をくり抜いた小さな祠が造られてお地蔵さんが祀ってあった。お地蔵さんには、ときどき新しいよだれ掛けがかけられていた。
お地蔵さんの岩場は、冬は子ども達の日向ぼっこの場所になった。岩の凹凸の部分を、岩登りをするようにして登っていかなければならないから、大きな子どもほど日当たりのいい場所が獲得できた。アマネという細い草の根を掘り起こしてしゃぶったり、春はツバナの穂を見つけて食べる。アマネはすこしだけ水気があって甘く、ツバナは柔らかかったが味はなかった。
お地蔵さんの山を奥へ入っていくと、繁った雑木の中にカンネがあった。カンネとは葛根(かずらね)のことで、掘り起こしたカンネは鋸で適当な長さに切り、土だらけなのもかまわずに齧ると甘くて苦い味がした。カンネの地表に出た部分は硬く、地中に潜った部分の方が水気を多く含んでいてうまかった。適当に裂いては口の中でガムのように噛んで、後に残った繊維の部分は吐きだす。
冬は山芋掘りをする。葉っぱが落ちたツルの中から、コブが上向きについた山芋のツルを見つけて、先の丸い特製のクワで掘っていく。山芋を傷つけないように掘り出すのは難しい作業だった。
お地蔵さんの山はそんなに深くはなかったが、薮の中から野ウサギが飛び出したり、足元からキジが飛び立ったりすることもあり、カンネを掘っていると、石の下から蛇の卵が出てくることもあった。昔、この山で大蛇を見た人がいて、その人は幾日も口が利けなかったという。そんな話があるので、こんな山でも気味が悪くなるほど深い山になることもあった。
いつ頃からか、林家に臼杵のおじさんと呼ばれる人を見かけるようになった。林家の子ども達が臼杵のおじさんと呼んでいたので、私たちも臼杵のおじさんと呼んだ。
臼杵のおじさんは臼杵の人で、コンニャク玉を扱う商売をする人だった。近隣の農家からコンニャク玉を仕入れてきて、海辺の町である臼杵へ運んでいた。背が高くて声の大きな人だった。やがて林家に子どもが生まれた。小さな子ども達は臼杵のおじさんをお父さんと呼んでいた。
林家の道路に面した部分がミカンを売る店になった。臼杵で仕入れてくるのだが、ヘタのとれたミカンは落ちミカンなので安かった。やがて野菜のタネや苗も扱うようになり、その方が主力になったのか店の看板は林種苗店だった。
私はいちど、いとこの健夫に誘われて林のタネを農家に売りに行ったことがある。健夫が自慢そうに「林シュビョウテンのタネです」と言って売るのをみて、私もその真似をして売った。しかしその時買ってくれた人は、林種苗店のタネだから買ったのではなく、子供が売りに来たことに同情したから買ってくれたのだと思う。山奥の村では、竹田の「山本屋のタネ」は知っていても、「林種苗店のタネ」はまだ誰も知らなかっただろう。
臼杵のおじさんは近くの山に野ウサギの罠を仕掛けていた。山の中にはけもの道という野ウサギやタヌキが通る細い通り道があった。獣の道は落葉がほかの部分よりわずかに踏み固められ窪んでいる。そのような場所に、臼杵のおじさんは針金を丸く輪にしたものを仕掛けておく。野ウサギがこの針金の輪に足か首を引っかけると、勢いで輪が締まるようになっている。この針金の一端は近くの丈夫な木に結わえてあったから、いったん、罠にかかった野ウサギは逃げることはできない。
ある日、野ウサギが罠にかかっているのを、私とシゲが見つけた。臼杵のおじさんに知らせたものかどうか迷ったが、シゲは自分が見つけたものだから自分のものだと言い、すぐに野ウサギを捕まえにかかった。しかし罠にかかった野ウサギはまだ生きていたから、捕まえようとしても容易には捕まらない。体は小さいが、獣の力ははかり知れないものがあった。シゲの手を逃れた野ウサギは勢いよく私の脚にぶつかってくる。二人が両方から追い詰めたつもりでも、野ウサギは巧みに間をすり抜ける。針金がついているから野ウサギの逃げ回る範囲は限られているのだが、それでも野ウサギは必死だから動きは一瞬たりとも止まらない。野ウサギには噛みついてくるほどの凶暴性はなかったが、逃げ回る野ウサギを子どもの力で押さえ込めるものではなかった。シゲはとっさにそばにあった石を拾うと、野ウサギをめがけて投げつけた。石は野ウサギの耳をかすめたが、ちょうど伸びきっていた針金を直撃し、はずみで野ウサギの体は丸くなって山の斜面を転がった。針金が切れて野ウサギは自由になったのだ。野ウサギは落葉を激しく蹴散らして逃げていった。あとには穴が空いたような静寂が残った。
シゲと私は呼吸を荒くしたまま、しばらく興奮がさめずに立ちつくしていた。
「なにが、臼杵のおじさんじゃ」
シゲが悔しい思いを吐きすてるように言った。
「よそモン(者)のくせしチ」
このことがあって後、臼杵のおじさんのことが何となく気になる存在になった。
罠にかかった野ウサギをやすやすと捕まえてしまう野性的な力強さ。野ウサギの長い耳をつかんで帰っていく猟師のようなおじさんの勇姿。手際よく皮を剥いで干すと毛皮の襟巻ができあがる。林家では野ウサギの襟巻がだんだんと増えていく。どんなに家族が増えても、毛皮の襟巻が不足することはないだろう。
何々のおじさんと呼ばれる他所から来た人は、子どもたちにとっては不思議な存在だった。子どもたちは他所のおじさんに敏感だった。何々のおじさんはしゃべる言葉も違うから知らない土地の雰囲気を持っている。それまでの生活習慣も違うだろうから、その行動も異質なものを感じさせるようだった。
私の父や大江の伯父は大阪のおじさん、金三郎祖父は四国のおじさん、そして、流浪の末裔である私はどこのおじさんだろうか。他所のおじさんばかりが住んでいる都会では、もはや特別な呼称は付かないのかもしれない。

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