ウサギ




台湾のおじさんが私に子ウサギをくれたのは、それまでもおじさんは、私が小鳥を飼ったり犬を飼ったりするのを、いつも興味深く見ていたからかもしれない。
冬の間、私は弓形をした罠で捕まえたミヤマホオジロを飼っていた。普通のホオジロは頬に白いスジが入っているのだが、ミヤマホオジロにはスジがない。けれども、頭の部分の毛がトサカのように立った姿は、小さいながらも凛として勇ましかった。毎朝、エサと水を取り替えたら庭の椿の枝に鳥カゴをぶら下げる。ミヤマホオジロは頭の毛を立て、2本の止り木をすばやく行き来し、高い声で歌うような独特な鳴き方を始める。朝は生まれ変わったようにいちばんイキイキとしている時だ。そして昼間になると、止り木にじっと静止して、つぶやくように小さな声でさえずっていた。
小鳥は冬の間、人里の畑や田んぼにおりてくるのを、罠を仕掛けて捕まえるのだった。ホオジロのほかには、ムクドリやアサユキ(ヒワ)などがとれた。メス鳥は羽も汚く、鳴き声も良くなかったので逃がしてやり、きれいなオス鳥だけを鳥カゴで飼った。春になると、再び山深くに帰っていくのがホオジロたちの習性だったから、鳥カゴをかけている庭の椿の花が散ってしまう頃になると、私は、ミヤマホオジロを鳥カゴから放してやる決心を、少しずつ固めていかなければならなかった。
秋にはコオロギを飼った。野生のコオロギを草むらから捕まえてきて虫カゴに入れておく。コオロギの尾は1本のものと2本のものがいた。オスとメスの違いが分らなかったから、かまわず捕まえたものは虫カゴに入れた。虫カゴの底に雑草を敷いてキュウリを与えておく。昼間は草の中に隠れているが、暗くなるとさかんに鳴きはじめる。澄んだ鳴き声は秋の深まりとともに冴えてきて、慣れると近づいても鳴き続けた。まるで小さな花が咲いたように羽が開いて振動していた。風が冷たくなってくると、コオロギの鳴き声は細く間遠になるようだった。ある日、コオロギの羽は白くなっていた。私はびっくりして年老いたコオロギを野原に帰した。
台湾のおじさんの家は隣りだったから、私の家の庭とおじさんの家の台所はほとんど続いていた。おじさんが台所の木戸を開けて顔を出すと、そこはうちの庭でもあった。おじさんが裏の方へ出かける時と、私のうちで裏庭へ行く時は同じ路地を使っていた。私はこの路地のわが家の壁ぎわに、自分で作ったウサギ小屋を備え付け、おじさんにもらったウサギを飼っていた。だから、おじさんは毎日私のウサギの成長を見ていた。
同じ頃、おじさんも子ウサギを何匹か飼っていた。おじさんの場合は、ウサギを飼うということは金儲けの仕事だった。ウサギを大きく育ててウサギ買いに売るのだった。だから、私にも大きく育てたら売ってやると言った。
私はウサギを売ることなどまったく考えてはいなかった。ただ、ウサギが喜びそうなことを工夫しながら飼っていた。小さな箱の中に入れられているのはウサギにとっては苦痛だろうと思ったから、いつも釣りに行くときに通る、財津の田んぼのレンゲ畑にウサギをつれていって放してやった。ウサギの白いからだがレンゲの赤い花の間を見え隠れするのを、私はじっと見張っていた。自分でも制御できないようなウサギの奔放な動きは、からだ中で開放感を表しているようだった。私はレンゲの甘い香りの中に寝ころがって、レンゲを美味しそうに咀嚼しているウサギの口の動きに見とれたりした。
私のウサギはみるみる太っていき、毛並みも輝いてきれいになった。
台湾のおじさんは、自分が飼っているウサギと比較して、私のウサギの成長にびっくりし、しばしば大きな声を出して賞賛した。おじさんの大仰な驚き方は、おじさんの性格によるものだったが、いつも私の気持ちをゆさぶるように高めるのだった。
ある日、いつものようにウサギとレンゲ畑で遊んだ後、いざ帰ろうと思って捕まえようとすると、ウサギは長い耳を動かして私が近づくのを察知して逃げてしまう。やっと尻尾をつかんでも、ウサギは私の手を振り払ってしまうほど力が強くなっていた。さんざん追い回したあげく、私は着ていた服を脱いでウサギの上から被せるようにしてやっと捕まえることができた。犬や猫などとは違って、ウサギは野生が勝った動物だった。耳をつかむと脚を縮めて体を硬くしていた、昨日までの弱いウサギではなかった。もう今日でレンゲ畑はおしまいだと決めた。飼育箱の中に入れられたままの、台湾のおじさんのウサギとは、もうすっかり別のウサギになっているはずだった。
台湾のおじさんの家族は、戦後、台湾から引き揚げてきたのだった。だから近所の子どもたちは、おじさんのことを「台湾のおじさん」と呼んでいた。薬局をしているおじさんの兄弟の家に間借りして住んでいた。兄弟はどちらも痩せていて、顔の彫りが深くて仙人のような風貌だった。けれども薬局のおじさんと台湾のおじさんとは、静と動、陰と陽で、まるで違っていた。
阿南薬局は、表のガラス戸を開けて入ると薬の匂いが充満していた。
薬を貰いに行くと、白衣を着た薬局のおじさんは、ガラスに囲まれた薬剤室で黙々と薬を調合する。おじさんから話しかけてくることはほとんどないから、陳列棚に並んだ色々な形や色の薬瓶を見くらべたり、おじさんの作業を見ながら待っている。最後におじさんは、少しずつ薬を配分して薬包紙に包んでいく。いつも薬剤の匂いの中に重い緊張した空気が漂っていた。
台湾のおじさんには2人の子どもがいたが、もう高校生くらいだったので、おじさん夫婦はすでに老夫婦に見えた。以前、私の家族が住んでいた家の裏手の畑で、おじさんはいつも畑仕事をしていた。野良着を着て麦わら帽をかぶり、鍬をかついだ格好はよく似合っていたから、おじさんはずっと百姓をしてきた人だと思っていた。季節になって野菜や果物が採れると届けてくれたが、わが家にとってイチゴや落花生は珍しいごちそうだった。
戦後に生まれた2人の妹は、時々ヒキツケを起こした。最初に発作を起こした時は母も動転して、わが子を抱きかかえると、とっさに台湾のおじさんの家にかけ込んでしまったのだが、その時の母の話によると、おじさんが「治った」と大声で叫んだら、とたんに妹は正気に戻ったということだった。誰もヒキツケというものの特性を知らなかったから、この時から、台湾のおじさんはわが家にとって神様のような存在になった。
私が赤淵で川遊びをしていて頭をけがした時も、ヨモギの葉で傷口を押えたまま、台湾のおじさんの所へつれて行かれた。私は頭のてっぺんを切っていて、顔中に血が滴っていたのだが、この時は、白い塗り薬を傷口につけてくれただけだ。
私が近くの山でダンゴ蜂に刺された時も、治療は台湾のおじさんだった。
山の斜面を降りていた時、足元にドッジボールのような丸い落葉のかたまりを見つけたのだが、それがダンゴ蜂の巣だった。表面には縞模様があり、今まで見たこともない異様なものだったので、近づいて覗きこもうとした瞬間、吹き出すように飛び出してきた親指くらいの蜂の集団に、私は頭や顔や全身を襲われた。転がるように山から駆け下りると、蜂に刺された痛さに泣き叫びながら家にかけ込んだのだが、またも救急とみるや母は、台湾のおじさんの所へ私を運びこんだのだった。この時も、おじさんの処置は塗り薬だけだった。それでも私はショックも起こさず回復したわけだから、おじさんの処置は正しかったのかもしれない。おじさんはすっかり、わが家の神様になった。
おじさんは、当時はやっていた「生長の家」の会員だった。そのことがおじさんの人格にどう作用していたかは知らないが、その風貌と相まって、子どもたちからみると、神様や仙人にすこし近かったかもしれない。いとこの健夫が中学を終えて大阪へ出ていくことになった時、近所の子ども達だけで駅まで彼を送っていったのだが、その中に大人がひとりだけいて、それが台湾のおじさんだった。
いよいよ改札が始まって健夫が改札口を出ていこうとした時、台湾のおじさんはいきなり大声を上げて
「大江健夫君、ばんざあい」と叫んだのだった。
それまで別離のさみしさでみんなうち沈んでいたのだが、おじさんの声を聞いたとたん、健夫の背中がグッと伸びたようにみえた。そうなのだ、都会へ出ていくということは晴れがましいことなのだ。急に明るい空気がみんなを包んだ。
台湾のおじさんは、私がウサギ小屋をいつもきれいにしていることにも感心していた。もうレンゲ畑にも連れて行かなくなっていたので、私はせっせと敷きワラを変えてやっていた。少し油断していると、小屋の中はすぐにコロコロした糞だらけになるし、ワラは小便で湿って臭くなるのだった。小屋が汚れるとウサギの白い毛もくすんでしまうので、こまめに掃除をしなければならなかった。
私のウサギは、小屋に入れておくのが窮屈に見えるくらい成長し、小屋の柵や壁をさかんにかじるようになった。木の柵がかじられてへこんでくると、その上に新しい板を打ちつけて補修した。ウサギは犬のように感情を読めないので、飼っていてもなかなか習性がつかめなかった。チチ草は本当にうまいのか、水は飲まなくても平気なのか、木の柵をかじるのはなぜなのか、ウサギ小屋の前で、私はあれこれ考えを巡らせたりしていた。そんな時におじさんが通りかかると、いつものように、「ようやる、ようやる」と大きな声をかけていくのだった。
やがて、ウサギが売られていく日がやってきた。おじさんは、こんなに大きく育ったウサギはきっと良い値で売れると言って嬉々としていたが、私には、おじさんの気持ちは理解できなかった。私はウサギを売りたくなかった。ウサギとお金が等価であるということが納得できなかった。けれども最後には、ウサギは売られるために飼われるのかもしれないと、気弱く妥協をしてしまうのだった。昆虫や動物を飼っていると、いつもどこかで別れがあった。チビという茶色のメス犬を飼った時には、六匹の子犬と六回の別れがあった。そして最後に、チビのつらい死があった。
私のウサギがどのくらいの値で売れたのかはおぼえていない。台湾のおじさんにもらったウサギの代価を、私はそのまま母に渡してしまった。それで、私とウサギとの関わりはいっさい終わったのだった。
のちに、台湾のおじさん夫婦は、東京の息子さんの家に越していったが、東京でのおじさんの生活は短かった。まだ学生だった私が訪ねたとき、おじさんはもういなかった。郊外のひばりヶ丘という新しい団地で、おばさんだけが息子夫婦と同居していた。
夕食をご馳走になった後に、若いお嫁さんがイチゴを出してくれたが、牛乳がたっぷりかかったイチゴの食べ方が、いなか者の私にはわからなかった。かつて、おじさんが作っていたイチゴは、形は悪かったが大きくて甘かった。私はそんなおじさんのイチゴを思い出していた。

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