川魚追譜




私はときどき、魚になっている夢をみた。
川の水を空気のように吸い込みながら泳いでいると、ひんやりとした水苔の匂いが胸いっぱいに満ちてくる。体が流れているような、漂っているような感覚が快かった。
梅雨の田植え期と秋の稲刈りの時期になると、農繁休暇というのがあった。農家の子供が多かったから、農作業の手伝いをさせるために学校は数日間休みとなった。家が商家の私は、この休暇はすることがないので思いきり遊べるのだった。
梅雨の頃はちょうど魚が産卵をする季節で、動きが活発になる魚を追って、私は終日釣竿を振りまわしていた。私の手の平は釣り上げた魚の白い精液や小粒の卵にまみれていた。雨あがりの湿った大気と増水した川のしぶきがやさしく融け合い、魚は婚姻色に美しく色づいて官能的な匂いを発散していた。
川魚の釣り方は年齢とともに変わった。
最初はドンコ釣りだった。ドンカチとも呼ばれて、幼魚の頃は薄い褐色で体表に縞模様があるが、成魚になるにつれ暗褐色になり、体もずんぐりとして頭でっかちな体形になる。口も大きくて貪欲なので、釣り落としても再度かかってくる鈍感な魚である。
大きめの針にエサはミミズをつけて釣る。糸はテグスでなくても縫い糸でもよく、竿は棒切れでもかまわない。だから初歩の釣りに最適である。大きな石の下や、石と石の間を狙う。竿を上下してエサを動かしながら誘いをかけていると当たりがくる。この時の手応えで魚の大小を想像しながら、一呼吸おいてエサを飲み込ませてから引き上げるとたいがいかかっている。大きいドンコは重くて、細い竿ではなかなか上がってこないので、易しい釣りにしては醍醐味があった。
初めて大物のドンコを釣った時は興奮して手の震えがとまらなかった。その日のことを私はよく憶えている。父が中国から復員して帰ってきた日のことだったからだ。駅で待っているという近所の人の知らせに、母と子で急いで夜道をとびだしていくと、暗闇の中に背の高い大きな人が歩いてくるのが見えた。体からはみ出るくらいの荷物を背負っていたので、よけい大きく見えたのだった。
ドンコは洗面器に活かしていた。こんなのが釣れるのかと言って、父はじっと洗面器をのぞきこんでいた。はじめて父の声を聞いたような気がした。
ドンコの生息域のすぐ側にいるのがアブラメ(アブラハヤ)だ。
アブラメはドンコとハエ(ハヤ・オイカワ)の合いの子のような魚で、体にはドンコのような暗褐色の斑点があるが、姿や動きはハエに近く敏捷である。体にぬめりがあり、ドジョウの感触に似ていた。ドンコ釣りをしていると、このアブラメがエサを横取りして、いきなり釣り糸を引っ張っていくのでびっくりすることがある。アブラメはドンコよりも上級とされていたから大歓迎だった。骨が柔らかく食べても美味しかった。
ドンコ釣りを卒業すると、次はウキ釣りになる。
竿が長くなり、釣り場も岸から離れて拡がる。最初はただ竿を振り回しているだけだが、空中に竿を振ったときの風の手応えや、遠くへエサを放り込む開放感は、ドンコ釣りでは味わえないものである。
初めてウキが水中に沈んだ、その瞬間のことは決して忘れることはないだろう。水面にただ浮いて流れていたウキが、突然、昆虫か何かのように水中に潜りはじめる。ほとんど反射的に竿をあげると、かかってきたのはハエだった。背が青く、腹部はきれいな銀白色をしている。用心深く動きがすばやい魚だ。
この時から、ひたすらハエを追いかける。
しかし、ウキ釣りは場所が限られているので、次の段階は川の瀬を自由に釣り歩ける瀬釣りになる。釣り方はテグスに目印の小さな綿をつける。流れの抵抗を少なくするため細いテグスを使い、川底の石に引っかからないように重りも小さくする。エサは瀬石についているカゲロウやトンボなどの幼虫の、瀬虫やヒラコという虫を使う。瀬虫は小石や砂を巣のようにして潜んでいるし、ヒラコは流れの激しい瀬の、滑らかな岩の表面を這い回っている。
瀬釣りだと釣れる魚の種類も増えてくる。ハエの他に、アカブト(ハエのオスが成長して、口や目の回りに粟粒大の突起物がたくさんでき、尻ヒレも長く伸び、体全体が大きく赤黒っぽく精悍な姿になったもの)、イダ(ウグイ)、イダ子、エノハ(アマゴ)、シバコ(エノハの小さいもの)、カマスカ(カマツカ)などが釣れる。
中でも最高の獲物はエノハであるが、私は釣ったことがない。アマゴをエノハというのは竹田地方特有の呼び名であるが、エノハは榎の葉からきたのではないかと私は考えていたところ、この地方の古い見聞記に「榎葉魚」という表記を見つけることができた。「味甚だ佳也」とあり、さらに「鯉、鮒、鮎、鰻類至って稀なる川也」と記されているのがおもしろい。私の子供の頃でも鮒は場所によっては釣れたが、鯉や鰻も珍しく、鮎などという魚は見たこともなかった。「アイのウルカ〜」と言いながら売りにくるのが珍しく、それが鮎の腹わたの珍味だったらしい。大きな川がある日田の方から売りにきていたにちがいない。
エノハは数も少なかったが、生息している場所も限られていた。いとこの健夫が30センチほどの大きなエノハを釣り上げたことがある。後年、そのことを健夫に話したが彼はすっかり忘れていた。釣り上げた本人が忘れていて、側にいた私が憶えていたのは、その時よほど悔しかったからにちがいない。いつかはエノハを釣り上げるために、私はひたすら釣り続けたような気がする。
エノハの小さいものをシバコといい、これはたまに釣れた。シバコは川の瀬が激しく落ち込んでいるところにいた。釣り上げられるとき、薄い体をしびれたように震わせるのが特長だった。体側に並んだ楕円形の濃青色の斑紋は、いつまで見ていても見飽きないほど美しかった。
初夏になるとイダゴがよく釣れた。これはシバコと同じでイダ(ウグイ)の小さいものだが、流れの速い瀬に集まっていた。ハエよりも体も大きいので引きが強く、釣りごたえがあった。水面から引き抜く瞬間、白くて細かい鱗に被われた魚体が銀色に輝いて眩いほどだった。
イダゴが成長して20センチ以上になったものがイダであるが、イダは用心深く、昼間はほとんど釣れないので夜釣りで狙う。エサはサバの内臓を腐らせたものを使う。悪臭がするので母に気づかれないよう、父がこっそり床下に隠していた。この内臓の腐った汁で小麦粉を練ってダンゴを作る。釣る時には、小さくちぎったダンゴを指先で丸めながら釣針を包み込んで隠してしまう。
父はよく夜釣りに出かけたが、たまに私もついて行った。
真っ暗な川の淵に座って、静かな流れの中にエサを放り込んだら、音を立てないように竿を握ったまま黙って魚の当たりを待つ。夜中までねばっても1尾も釣れないこともある。明かりといえば夜空の星と遠くの家の灯だけ。ときどき野ネズミかイタチがそばの薮を駆け抜けたり、聞き慣れない虫の鳴き声がしたりする。敏感なイダに気づかれないよう、父と子はそばにいても声を交わすことは少ない。当たりがないまま時間が過ぎるうち、私の集中力は次第に弱っていく。父が釣りをあきらめるのをひたすら待ち始める。釣れない時は長くて心細い夜だった。
ある夜、父は釣りに出かけたと思ったらすぐに帰ってきて、まだ生きている大きなイダを家族の前に放り出した。あまりの大きさにびっくりした父は、釣れるとそのまま抱きかかえて持ち帰ってきたのだった。体のわりには小さな口を伸び縮みさせて魚は呼吸していた。イダがどのくらい大きくなるものか知らないが、その夜のイダは鯉に負けない大きさだった。
イダと鯉とカマスカ(カマツカ)は口の形が似ている。けれどもカマスカはまるで違った姿をしている。カマスカの角張った体形と美しさは別種のものだ。
川を歩いて渡っていると、川底の砂地で、しばしば足の下で動くものを踏みつけることがあった。カマスカである。背が薄い黄色でヒレに黒っぽい細い縞があった。砂地を好み、たいがい頭部とヒレだけを出して砂に潜っていたから、箱メガネや水中メガネをつけて、微かな縞模様を見つけるとヤスリ(魚ヤリ)で突いて捕る。命中するとカマスカがもがいて砂けむりをあげるので、どきどきしながら水が澄んでいくのを待つのだった。
カマスカは、明治8年に玉来の医師だった嵩地白孝という人が、熊本から持ち帰って放流したのが始まりらしい。今ではこの大野川のあらゆる支流の砂地をその縞模様が占拠しているにちがいなかった。
アオ釣りというカマスカの釣り方があった。アオ釣りのアオにどんな意味があるのか知らないが、この言い方が納得いくようなのんびりした釣り方だった。
釣り場としては、流れがゆるくて水深がやや深めのところを選ぶ。竿は太めの竿、テグスも太め、重りも川底を釣るので重めのものを使う。エサにはミミズや瀬虫の成長したスン虫(寸虫)という虫を使った。重りを振り子にしてエサを遠くへ放り込むと竿は川岸に固定させたまま、後はのんびりと竿先に当たりがあるまで待つ。針を2本つけておけば2ひき同時にかかる時もある。カマスカの口は鯉に似て下向きについていて両脇にヒゲがある。比較的鈍感な魚であるから、放っておいても掛かったものが逃げるようなことはほとんどない。誰でもやれる易しい釣りだった。
ただ、カマスカという魚は川底にいるせいか、川の汚れには敏感な魚だ。私はかつてカマスカが白い腹を見せて、川面いっぱいに浮いているのを見たことがある。汚れた川には棲めない魚だから、今でも玉来川のカマスカが健在かどうか気になっている。
私の釣りは、いつも中島という辺りから始めて、川の流れに従って川下へと下っていくことにしていた。瀬釣りなので深みのところでは岸を歩く。流れにつきでた枝に糸が取られないように気をつけながら、ネコヤナギの繁ったかげを狙う。大石のそばの淀みや激しい瀬の落ち込みなど、大概はポイントが決まっていた。ただ雨で増水した後などは思わぬ場所でバカ釣れすることもあるし、そうかと思うといつもの釣り場が渇水で干上がってしまうこともあり、川の水量と流れによって魚の動きも常に変化していた。
中島がつきて川の流れが一本になり、ビワの果樹園の傍らを過ぎると製材所がある。太い材木を裂いていく電動鋸の金属的な響きが川の瀬音をかき消している。大量のオガクズが川に向かって雪崩れていて、川の流れとオガクズが混ざったあたりに材木の匂いが漂っていた。この辺りは四軒家(しけんや)という所だった。川のそばに沖縄出身の当間さんという馬車引きの家があり、若くてきれいな奥さんがよく川で洗い物をしていた。傍らではアヒルがいつも浅瀬を泳いでいた。
四軒家にはよく釣れる瀬があって、いつ頃だったか、新種の珍しいシラハエ(白ハエ)が釣れだしたことがあった。それまでの背中の青いハエとは違って、白くてきれいな魚だった。シラハエはよく釣れた。弥市兄ちゃんによると、隧道工事によって他所の川にいた魚が入ってきたのだろうということだった。
ちょうどその頃、魚住ダムの水量を増やすために、山ひとつ隔てた飛田川からときわ橋に隧道が引かれたのだった。シラハエはこの隧道を通って流れ込んできたものらしかった。かつてカマスカが熊本から連れてこられて増殖していったように、いま新しくシラハエがこの川の魚族に加わって増えつつあった。シラハエの増殖の勢いは、この川を急速に豊かにしていくようだった。
私の一日の釣りはときわ橋の瀬で終わるのが常だった。
ときわ橋は大きな滑らかな岩盤でできた地形で、川の流れはそこに集約されるように大きな瀬となって落ち込んでいた。この落ち込みには魚が集まっていた。
足場の岩盤には幾筋か細い排水路ができていた。上の民家から台所の排水が流れ込んでいたのだが、多くなったり途切れたりして、広い岩の肌に縞模様を描いていた。そして日暮れ近くなると、足場を侵してくる排水が増えるのを見て、私は急かされるように、その日の釣りを切り上げる決心をするのだった。
幾度もくり返したそのような日々。そして、いつか終わりのときがあったのだが、少年の歓喜を彩ってくれたさまざまな魚たちは、今でもときおり、私の夢の中に泳ぎ出してくることがある。

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