宝の山に入る




私の父を商売の道に引き入れたのは、1本のカライモのつるだった。父自身もそう言っていたことがある。
昭和21年、家族が疎開していた九州の片田舎に、父は中国から復員して帰ってきた。父はその時34歳だった。比較的恵まれた戦地に居たのか、生活物資をいっぱい詰め込んだ大きな荷物を背中に背負って帰ってきた。その中には、米や乾燥したタケノコ(シナチク)などの食べ物のほかにチリ紙まで入っていた。しかし当時は物資の乏しい時代だったので、父はさっそく買い出しに出かけなければならなかった。
ある買い出しの折、ちょうどその時、父はカライモのつるを山奥の農家から手に入れて帰る途中だったのだが、そのカライモのつるを欲しいという人があり、父はなにがしかの口銭をとって分けてやった。父にとって、これが商いのきっかけになった。その時、商売というものの面白さを知ったという。こうして父は商人としての一歩を踏み出した。まさに、歩いて行商に回ることから始まったのだった。
父は最初、どこからか毛糸を仕入れてきて、田舎の方へ行商して回っていた。そのうち衣類も扱うようになり、父が担いでいくふろしき包みの荷物も大きくなった。やがて大きなかごを後ろにくくりつけた自転車に乗って毎日出かけるようになった。まっすぐなハンドルが付いた運搬用のがっしりした自転車だった。
まもなく2人の子どもが相ついで生まれ、わが家の家族は7人になった。
ときどき父は大阪へ仕入れに出かけた。父はもともと大阪の生まれだし、若い頃は高山堂という粟おこしの老舗で働いていたので、大阪の地理には詳しかった。
やがて日本橋の松田という質流れ品を扱う店と懇意になって、そこから品物を送ってもらうようになった。
古い毛布で梱包した大きな荷物が幾つも大阪から送られてくる。狭い6畳間で荷物に埋まりながら、父はひとつひとつ梱包から取り出しては脇に積み上げていく。衣類のほかに靴や時計まで出てくる。芸人が着るような派手な配色やデザインの服、しみやほころびのあるままのズボン、化粧品の臭いがする下着など、使っていた人の生活のにおいがまだ残っているものがある。たまには背広のポケットに小銭やハンカチが入っていることもあった。
時計がたくさん送られてくると、父は時計の文字面に刻まれたローマ字を私に読んでくれという。私にも時計のブランドはよくわからない。父が「セイコーか」と尋ねるので、私が違うみたいだと言うと、
「ほなら、スイス製にしとこ」といった案配である。時にはシチズンがスイス製になってしまうこともあった。
商品にはそれぞれカタカナの符丁が付いていた。売り主と買い主とでとり決めた卸値の暗号だった。コヨリに墨で書かれていた。
「タカラノヤマニイル」(宝の山に入る)
これが符丁だった。タは1、カは2、ラは3で、タカラは数字に直すと123となる。すなわち、タカラと書いてあれば123円のことだった。父は符丁のコヨリを指でつまんで確認しては、新しい荷札に素早く適当な売値を書いていく。中古品だから値段は父の思いのままだ。その傍らで私は、タカラノヤマニイル、タカラノヤマニイルと頭の中で反芻しながら、ひそかに暗号解きを楽しんでいた。
その頃には、道路に面した部屋を改造して小さな店構えにし、父は初めて大阪屋という看板を出した。父は終生、大阪弁を使っていたし、店の商品も大阪から仕入れたものだから看板に偽りはなかった。父自身も大阪商人になりきっていた。
品物は中古品だから新品よりは安い。掘り出し物がありそうだということで次第に客は増えていくようだった。わずかな予算で背広の上下から、下着、靴まで一式揃えることも不可能ではなかった。少々サイズが合わなくても、父は巧みに売りつけてしまう。騙すというよりは、大阪弁のあいまいさと父の話し方の面白さで、客は笑いながら納得して買わされてしまうのだ。少々不満でも、その分値段が安いから仕方がないと思ってしまう。むしろ、父は客が得をしたような気分にしてしまうのだった。商売というのは長続きすることが大切だから、どんな場合でも、最後には客に満足してもらわなければならないということを、父はよく心得ていた。
1日の商売が終わって店を閉めると、店の金庫がわりにしていた木の引き出しを抜き出してきて、食卓の上で1日の売り上げの計算を始める。千円札を10枚ずつ束ねて積み重ねていくのを見ていると、子供の私たちは儲かっているのだなと思う。けれども、商人には自由に使えるお金はないのだというのが父の口癖だった。お金は常に商品に代えて殖やしていかなければならなかったから、わが家の暮らしはいつもつつましかった。
商売は暮れが一番忙しくて活気があった。どういうわけか食事をしようとすると客が来るのだった。そのたびに父は箸をおいて店に出るのだが、冷やかしの客だとみると、適当にあしらって奥に戻ってくる。母が客はもう帰ったのかと聞くと、いいやまだおる、と言って父は食事を続けるのだった。
暮れの忙しさが終わるとすぐに、正月は2日の日が初売りで、朝は夜が明けないうちから客がドンドン表の戸をたたきはじめる。年明け早々の客には、特別のサービスをするのがこの地方の商慣習だったから、安い買い物をしようとねらっていた客が、早朝から商店の戸をたたいて回るのだった。
店の商品を父から預かって行商する人もいた。大江の伯父や弥市兄ちゃんもその仲間だった。伯父は戦地で、鉄カブトに砲弾を受けて耳が不自由になっていた。兵役の前は大阪にいたので、父と同じ大阪弁をしゃべっていた。「もうからへん、あかん」と言うのが口癖で、耳が遠いせいかとぼけた雰囲気があって、行商先では、ツンボさん、ツンボさんと呼ばれて人気があるらしかった。
弥市兄ちゃんは、広島の連隊にいたときに原爆にあったので、体調がすぐれないのをそのせいにして仕事をさぼることがあった。ふたりは夜になると店に来て、商品の点検や精算をしたり、翌日持っていく品物を選び出したりしていた。
たまに因縁を付けるようなたちの悪い客が店に来ると、弥市兄ちゃんの出番だった。気の弱い父が困っているのをみて、母がこっそり弥市兄ちゃんを呼びに行く。すると彼はすぐにやってきて、何気ない振りをして客の様子をうかがっているが、そのうち客の襟首を掴むと、有無を言わせず店の外へ放り出してしまうのだった。
私が義務教育を終える頃、父は私を大阪に丁稚奉公に出したがっていた。私は丁稚にさせられるのが嫌だったので高校へ進学したようなものだ。父は普段からよその人に息子のことを話す時、「うちの坊主、うちの坊主」と言っていた。息子のことを坊主と言うのは大阪のある地方の言い方だったのだろうが、この地方でそのような呼び方をされるのは奇妙な響きがあって恥しかった。父が丁稚奉公の話を持ち出した時も、丁稚と坊主が同じ語感をもっていて、私は何か時代おくれな暗いところにやられるような気がして拒否反応を起こしていた。
私が高校を卒業する時も、父はまだ丁稚の件をあきらめてはいなかった。私はとにかく家を飛び出そうと思って、1人で東京行きを決めてしまった。
私が東京へ発つ日、父は私を自転車に乗せて竹田駅まで送ってくれた。ボストンバッグを後ろの荷台に積み、私は自転車のアームに横座りしてハンドルにつかまっていた。途中ずっと、私は自転車をこぐ父の息づかいを後頭部に感じていた。互いに話しかける言葉もみつからず、普段は饒舌な父も何も話しかけてはこなかった。
私が2年半ぶりに郷里に帰った時、店は竹田の駅前の川沿いに移っていた。
店構えも少し大きくなって、屋根の上には大阪屋という看板を上げ、入口には暖簾が下がっていた。商売は順調なようだった。
その時、私は大学に籍を置いていたので、親には夏休みだということにしていたが、それまで住み込んでいた新聞販売店を辞めていたから、東京に戻る場所はなかった。それでも何とかなるだろうと思って、夏が終わると再び家を後にした。
翌年の夏、竹田に帰った時、私は結核に罹っていた。大学の診療所長から紹介状とレントゲン写真をもらって別府の国立療養所を訪ねたら、そのまま入院ということになった。東京のアパートの片付けは父がしてきてくれたのだが、それから二年間、私はまた親の世話にならなければならないことになってしまった。月々の療養費のみならず、大学の学費も、休学ということで半分納めなくてはならなかった。私ははっきりした目標があったわけではないから大学は辞めてもいいと思っていたが、父は黙って学費を納め続けてくれた。
その後、妹たちも次々に家を出ていった。
私が大学を卒業した時は26歳だった。それから2年後、私がいきなり結婚すると言い出した時、父は私が文無しであることを見抜いていた。結納金がいるだろうといって10万円くれたので、私は半分を新婚旅行の費用に充てた。結婚式の費用はお祝い金で何とかなるだろうと考えていたが、式の費用も父が全部清算し、遠くから来てくれた親戚の旅費まで父が負担したということだった。そして集まったお祝い金は、その後の新婚生活で消えてしまった。
披露宴が始まると、父はいきなり立って挨拶を始めた。私が組み立てていた式次第では、花婿の父は最後に挨拶をすることになっていたのだ。おそらく何日か前から暗記していたのであろう、父は舌ももつれるくらいに緊張して型どおりの挨拶をした。それが済むと、周りに座っていた親戚のだれかれに盛んに頭を下げながら、やっと大役を終えたといった感じでニタッと笑った。披露宴の最後まで出番を待っているなど、せっかちな父にはとても出来なかったのだろう。厄介なことは早く終えてしまいたいといった気持ちが、その場の父の表情に現れていた。初めての子供の結婚式ということで、父は息子以上に緊張していた。
晩年、父の店は2度の水害に遭った。
雨戸もタンスも水の力にはあっけなく、板切れのように軽々と浮いて流れていったという。もちろん店の商品もほとんど水にさらわれた。水害の後に行ってみると、柱と壁だけになった家の中は、一面泥に覆われて廃墟のようになっていた。その泥の中から、店の商品だったズボンや背広が無残な形でのぞいていた。
細かい泥がしみこんだ衣類は、いくら中古屋といえども、もう売り物にはならないものだった。それでも、汚れた衣類を泥の中から掘り出しては前の川で洗った。どのように処分されるものかわからなかったが、とりあえず泥を洗い落としておくしかなかった。私に出来ることはそれしかなかった。そんな徒労かもしれない作業をしていると、このガラクタに、父はもういちど符丁をつけるのだろうか、という思いがしてくるのだった。
平成4年の暮れに、父は大阪屋の看板を下ろした。80歳だった。

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