祖母の思い出




祖母の手の甲には大きなこぶがあった。
右手だったか左手だったかは憶えていない。ちょうどピンポン玉くらいだったと思う。顔のかたちや話しぶりの記憶よりも、この手の甲のこぶに触って戯れた記憶の方がはっきりしている。こぶの感触だけが、祖母そのもののように鮮やかに蘇ってくる。このこぶがなかったら、祖母のもっとほかの、たとえば表情だとか声だとか、別の記憶の形があったかもしれないと思う。
祖母の家はわが家の隣りにあった。平屋で、屋根がトタン葺きだった。トタン葺きの家は珍しかった。母が子供だった頃、家業は饅頭屋だった。ちょうど正月の餅をつく準備をしていた年の瀬、家から出火して火事になった。よそから預かっていた正月用の餅米なども全部焼いてしまったのだ。大きな災難だった。
その後、家を建て直したときに、瓦を乗せるまでのお金の工面がつかなかったようだ。
饅頭屋の商売は、あんこを練るのが毎日のひと仕事だった。母は学校から帰ると、あんこ練りを毎日手伝わされたという。上の姉たちは学校を卒業すると家を出てしまったので、最後に残ったのは末娘の母だったのだ。その後、トタン屋根を瓦に葺き替えるほど、繁昌することもなかったのだろう。饅頭屋を廃業したのちトタン葺きの屋根はそのまま残った。
道路に面した表の部分が、出入口と壁が組み合わされた1枚の大きな板壁になっており、この板壁の上部に蝶番がついていたので、持ち上げると天井に貼りついて納まるようになっていた。2枚続きの板壁の部分を両方とも持ち上げると、土間は道路に向かって開放されることになり、表からそのまま入って来られるようになっていた。これは商家特有の家の構造だったのかもしれない。
西側の壁には浅い棚が何段かあって、ほこりをかぶった小さな瀬戸物の人形が置いてあった。人形は饅頭屋をしていた頃の店の飾り付けの名残りだったのだろう。ときどき人形の配置が変わるのは、子供たちの気まぐれな悪戯によるものだった。
夫の金三郎が死んだのが昭和八年だから、その後、祖母はずっと女手ひとつで切り盛りしてきたことになる。
昭和19年、20年になって戦局が厳しくなると、夫を戦地にとられた娘達が都会から子供を連れて帰ってきた。まず大江の家族が5人、つづいて私の家族が4人、すこし遅れて四国から河野の家族が5人戻ってきた。これから一体どうなることかと祖母も案じたことだろう。それまでひっそりと暮らしていた祖母の回りが、この時から急ににぎやかになったのだった。
祖母が死んだのは昭和25年だから、私たちが祖母の近くで過ごした期間は短かった。戦争末期から戦後にかけての最も貧しく混乱した時代だった。私はまだ幼かったこともあり、祖母についての記憶は少ない。虫食いのような記憶の断片しかない。それはなぜか冬の日のことだ。山で炭を焼くけむりの混じった朝のいがらっぽい空気、ひだまりの縁台の板の割れ目の感触、苔の苦みが混じった氷柱(つらら)の味、干し柿と藁の匂い、それらに取り巻かれて祖母の姿がぼんやりみえる。
祖母はいつも火鉢の前に座っていた。
表の土間の、上がりかまちのすぐの所に大きな四角い木の火鉢があった。いつも銅壺(どうこ)のお湯が湯気を立てており、灰の中に竹筒が1本立っていた。祖母はこの竹筒に、煙管をこんこん打ちつけては煙草の灰を落としていた。ときには、和紙で細長いコヨリを作って煙管の穴の掃除をしている。どろどろとした黒いものが、煙管の吸い口から出てくるのが面白くてじっと見ていたものだ。冬の寒い頃には、米櫃の底からやわらかに熟したジュウレン柿を取り出してくる。赤くてぽってりとした大きな柿は、祖母のだいじな宝物のようだった。
また、秋になると松茸を穫ってくるのも祖母の仕事だった。
わずかな山ではあったが、祖母だけが松茸の生える場所を知っていた。秘密の場所はのちに息子に受け継がれたようだったが、山が他人に渡ってしまったあとは、松茸がどうなったかはわからない。
祖母は死ぬ少し前から寝込んでいた。当時はどこの家でも土間が表から裏まで通じていたので、よその家の土間であっても、子供達にとっては道路と同じようなものだった。ある日、祖母の家の表から裏へ通り抜けようとしていると、気配を察したのか奥の方から「だれや」と言う祖母の声がした。
おれじゃ、と私がこたえると、
ヨッちゃんか、と祖母の声。
祖母はすでに少しボケていると聞いていたのだが、私の声がはっきりとわかっていたので驚いた。そばへ来て腰を動かしてほしいと言う。私はおずおずと祖母が寝ている部屋に入った。
祖母は仏壇の前の薄暗いところで寝ていた。寝返りを打ちたかったが、もう自分の力ではできないほど弱っていたのかもしれない。掛け布団をめくると祖母の体は小さかった。細かいことは憶えていないが、11歳の少年はその時、恐ろしいものに触れるような手つきで、祖母に乞われるままのことをしたのだと思う。それが、私が祖母のために何かをしてやった、たったひとつの事だったかもしれない。
それからまもなく祖母は死んだ。72歳だった。

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