シゲ




彼の名はシゲ。彼とは同じ年だった。もう40年以上も会っていないから、私の中の彼はいまも少年のままだ。
孫田重信というのが彼の名前で、父親は孫田東仁といった。父親は帰化した朝鮮人で、東仁という名前は朝鮮名だった。シゲは父親のことをトウジンボシと呼んでいた。九州では鰯を丸干しにしたものをトウジンボシ(唐人干し)といい、炭火で焼いたものがよく食べられていた。東仁(トウジン)とトウジンボシの言葉の似ていることから、シゲは父親のことをからかいの意味を込めてそう呼んでいたのだ。彼にとって父親もケンカ相手のひとりにすぎなかった。
シゲには3人の姉妹と3人の兄貴がいた。長男がマサトという名で、次男がアキトで3男がフジト。いずれも人(ト)という字が名前の尻に付いていた。その中で4男のシゲだけが他の兄弟のように人という字が付いていなかった。だが、そのことについてはどんな事情があったのかは知らない。
長男と次男は早くから家を出て福岡の炭坑で働いていた。3男のフジトはシゲと年齢が近かったのでよく知っている。フジトとはよく近くの山へ薪を取りに行った。フジトは薪取りの最中はずっと歌を歌ったり、役者の真似をしたりしてふざけていた。枯れたハゼの木は根元から押し倒すことや、白い苔のついた枯枝は枝にぶら下がるようにして落とすこと、堆積した落葉の中から枯木を掘り出すこと、そして最後に、集めた薪を均等の長さに揃えて藤蔓でかたく縛ることなど、ひと通りのことをフジトから教えてもらった。
フジトは痩せていたがシゲは太っていた。腹がとび出していたのでズボンがすぐに下がってしまい、デベソがいつも見えていた。体は大きくはなかったが、その頃はみんな痩せていたから彼の体型は目立つ方だった。
シゲには兄貴が3人もいたせいか、よその子供達よりもませていた。そのため、みんなを支配する力も備えているようだった。とくに同じ年の私は、いつも彼におどされて頭を押えられていた。
小学校へ通うには2つの道があった。玉来の街道を通っていく道と、人が通らない山道を抜けていく道だった。シゲの家がちょうど山道に入るところにあったので、彼と2人で登校する時はこの山道を抜けていくことが多かった。雑木の茂った細い山道をひたすら登っていくと、馬車が通るくらいのすこし広い道に出る。右に折れてそのまま坂道をくだると小学校の裏だった。途中の暗い杉林まで来ると、シゲは学校へ行くのが嫌になるみたいだった。そんな時は彼がさぼったことは硬く口止めされ、私は誰にもしゃべれない秘密をかかえて、ひとりで学校へ行かなければならなかった。
小学校3年の新学期から男女共学になった。クラスの中に異性がいることになかなか慣れなかった。休みの時間も男子と女子ははっきり分かれて行動していた。
授業中は5人ずつくらいのグループに分けられていた。私はシゲと同じグループだったが、シゲは女の子に強い関心をもっていた。ある日グループの中で、シゲがラブレターを書こうと言い出した。シゲが考えた文面を私が清書させらされた。そのラブレターが、誰から誰に渡ったのかわからないうちに先生に渡っていた。竹田の二宮写真館の若い男の先生だった。二宮先生は激怒して犯人の追求を始めた。きっとこのクラスの中にいると言った。書いたのは誰だと言われればそれは私だった。犯人は私だということになる。しかし私はシゲに言われるままに書いただけだから、私よりシゲのほうが犯人だといえる。けれどもこの日、シゲは学校をさぼっていた。犯人がいない、次の犯人は私だ、どうしよう。私は黙ってうつむいていた。みんなが黙っているので、二宮先生の怒りは次第に高まっていった。先生は私のグループのひとりを名指しして、お前が書いたのではないかと怒鳴った。彼もラブレターを書いたときの仲間だったわけだから、きっと彼は落ちつかない表情をしていたのだろう。彼はびっくりして、とっさにシゲの名前を口に出した。さらに追求されるうちに、書いたのが私だということもばれてしまった。
ちょうど昼休みになったところで、私はひとり教室に残された。机と机の間に立たされると、二宮先生の平手がいきなり顔に飛んできた。右からと左からと交互に飛んできた。私の体はバランスを失って机にぶつかった。それでも私は必死にがまんして立っていた。先生の怒りの激しさがよく理解できなかった。しかし、この叱られ方は自分が相当悪いことをしたからなのだと思わずにはいられなかった。ラブレターの文面がどんなものだったかは憶えていないが、シゲはかなり露骨な言葉と内容を私に書かせたにちがいなかった。稚拙な表現であったから、かえって卑猥になり、二宮先生の怒りをあおったのかもしれなかった。
昼休みのがらんとした教室の中でひとり弁当を食べていると、そばに二宮先生がやってきた。
「さっきは痛かったか」と先生が言った。静かな口調だったので、先生はもう許してくれたのだと思った。私は黙って頷いた。とたんに涙が溢れてきて止まらなくなった。みんなは私が犯人だと思っただろう、そして、もう誰も私とは遊んではくれないだろうという思いが、強く私の胸をふさいでいた。そのことが、先生に叱られたことよりも悔しくて、私は弁当が食べられなくなった
しばらくして、私はみんなが遊んでいる校庭に出ていった。私はすっかり気落ちしていたが、みんなは私の赤く腫れた顔に同情するように、悪いのはシゲだと言って私をかばってくれた。
結局、シゲはその後しばらく学校には現れなかった。
ある日、佐藤の畑の土手で、シゲと2人でアマネの根を掘っていた。アマネはかじると甘い味がする何かの草の根だった。シゲが草のはえた地面に穴を掘れと言った。私はシゲがするのを見ながら、同じように指が入るくらいの穴を掘った。次にシゲはその穴の中にチンポを入れろといった。私たちは地面の穴にチンポを入れ草の上に腹ばいになった。
「好(す)いちょる女子ンこつゥ想うんじゃ」とシゲが言うので、私はカッちゃんのことを想うようにした。アマネの汁が唾液と混じって口いっぱいになり、背中から照りつける太陽が暑かった。草むらの熱気を吸い込んでいると、体が溶けてそのまま眠ってしまいそうだった。
シゲの遊びは私の想像が及ばないものが多かったし、しばしば残酷さをともなっていた。学校の帰りは同じ方向の子供たちが何人か一緒だった。いつもタツヒロのランドセルをみんなで蹴りながら帰るのだった。ある日、赤淵の川のそばにかかったとき、シゲがいきなりタツヒロを川に突き落とした。川の深さはタツヒロの口のあたりまであった。タツヒロは激しく咳き込みながら、呼吸をするために口のまわりの水を両手で払いのけるようにしてもがいていた。タツヒロはこのまま死んでしまうのではないかと思った。
冬になると小鳥の罠を仕掛けてホオジロを捕る。ある時、砂田の畑に仕掛けた私の罠を、シゲと2人で林の物置小屋から見張っていたことがある。私の罠だから、かかった小鳥は私のものだと思っていたが、シゲは最初にかかった小鳥は自分がもらうと言ってきかない。言い争っていると、仕掛けの網がホオジロを捕らえたのが見えた。それとばかりに飛び出したがシゲの方が早かった。あばれている小鳥を押さえつけると、網の穴から出ていたホオジロの頭をもぎ取って投げ捨てた。網の中には羽を一面に散らした小鳥の胴体だけが残った。
「これヂ、いいやろが」とシゲは叫んだ。
なぜ、こんなことになるのか、彼の行動がよく分からなかった。
4年と5年の2年間、高山先生という男の先生が担任だった。先生の家は玉来の芝居小屋の隣りだった。よく銭湯でも見かけることがあったが、先生はいつも忙しそうに体を洗うとさっさと黙って帰っていった。学校にいる時の先生と銭湯にいる時の先生は別人のようだった。高山先生にはカミナリというあだ名が付いていた。漢字テストをすると、間違った数だけ竹の棒で頭を叩かれた。いつも黒板の脇に立てかけられた竹の棒は、生徒の頭を叩くから竹刀のように細かく裂けていた。
高山先生は、私がシゲにいじめられたりすると、本気になってやり返してみろと言って私の尻をたたいた。おまえの方が体は大きいのだから喧嘩をしたら勝つはずだと言うのだった。
ドウクリ(胴繰り?)という子供の遊びがあった。戯れの喧嘩であり、適当に加減しながら取っ組み合いをする遊びだった。学校の廊下を走り回ったり階段を駆け上がったりして子供らはドウクリをする。そんな時、私はシゲと本気で喧嘩をしても勝つかもしれないと思うことがあった。速攻すればシゲに勝てるかもしれなかった。しかし勝負が長引くと彼の粘っこさにやられてしまいそうだった。私はじっと機会を狙っていたが、子供の喧嘩では泣いてしまえば負けなわけだが、シゲが泣くなどということは考えられなかった。だからどうしても彼には逆らえなかった。
いちど、シゲに助けられたことがある。私が上級生にいじめられていたとき、シゲは私のそばに来てその上級生に向かって叫んだのだった。
「ヨッチャンとこンおじさんを知らんのかヤ、からだ中に鉄砲の傷があるんやド」
それを聞いて私はびっくりしたが、シゲの勢いに相手もひるんだ。さらにシゲは言った。
「おじさんはのう、敵ン鉄砲玉が飛んヂくるンも気イせんヂ、切り込んヂ行ったんジャ、恐いんやド」
私はシゲが誰のことを言っているのかわからなかった。彼は普段から大ボラを吹くことなど平気だったのだ。しかし、この時ほど彼を心強く思ったことはなかった。
シゲが学校をさぼっている間、私は毎朝、柴田のイワちゃんと一緒に学校へ行った。彼には母親がいなかったが、快活な子でクラスでも人気者だった。シゲのような威圧感を感じなくてすむので、私もイワちゃんが好きだった。彼は紙梳き屋の近くに住んでいたので、いつも登校途中に私を誘ってくれた。
そのイワちゃんがクラスの中で孤立してしまったときがあった。みんなから彼をひき離したのはシゲだった。イワちゃんの人気が高まったので、シゲはボスとしての威厳を示さなければならなかった。彼はイワチャンをのけ者にすることを画策し、そのことに誰も反抗できなかった。
私は今でもその時のことを、シゲに催眠術でもかけられたのではないかと思っている。クラスの男子のみんなが催眠術にかけられたのだった。シゲに命令されると、みんなは平気でイワちゃんを殴ったり蹴ったりできた。ひとりの人間をいじめることの快感のようなものすら感じていた。
そんな現場を高山先生に見つかってしまった。シゲはすばやくどこかへ逃げてしまった。残ったみんなは先生に説教されて、ひとりずつイワちゃんに泣きながら謝った。教室中に泣き声が広がった。よくわからないが、嗚咽が勝手に体の底の方からでてくるのだった。もともと、誰もイワちゃんを嫌っていたわけではなかったのだ。イワちゃんを苛めていたときの快感と、彼に謝罪したあとの爽快な気分。どちらもよく分らない感情だったが、それは今まで感じたことのない新しい感情だった。私はこの時はじめて、友情のような複雑な感情を知ったのかもしれない。
ある日、校門のところにシゲが立っているのを誰かが見つけて騒ぎだした。高山先生は、みんな外を見てはいけないと言った。騒いだらシゲが来なくなるから知らないふりをしていろと言った。大分たってからシゲはそっと教室に入ってきたが、高山先生は何事もなかったようにそのまま授業を続けた。
高山先生は、よく授業時間をさいて本を読んでくれた。大佛次郎の『右近左近』という本で、毎日少しずつ続き物として読んでくれたから、次はどうなるのかと思いながらこの時間を私たちは楽しみにしていた。シゲと私は、物語の中の新撰組と勤皇の志士とどちらがイイグミ(良い組)でどちらがワルグミ(悪い組)かといって議論をした。私は新撰組がイイグミだと言い、シゲは勤皇の志士がイイグミだと言った。2人は高山先生に確かめに行った。先生の答えはどちらが悪くてどちらが良いというものではないということだった。先生が読んでくれた本の内容を、ふたりともあまり理解していなかったのだろうか。私は単純にイイグミとワルグミとに分けてしまう考え方を変えなければならなかった。
6年生になると梶原先生という男の先生に代わった。赤ら顔で大きな恐い顔をしていたが、見かけとはちがって優しい先生だった。それまで先生は生徒を殴るものと思っていたが、梶原先生は手をあげることはなかった。もう体罰をする時代ではなくなっていたのかもしれない。
梶原先生は戦後、家族で上海から引き揚げてきた時の逃避行を、授業の合間に少しずつ話してくれた。家族で中国大陸から朝鮮半島を飲まず食わずで歩いて逃げてくる、長くて恐ろしい話だったので、私たちは梶原先生の悲惨な体験談を毎日心待ちにしていた。戦後も5年が過ぎていたのに、梶原先生の話は昨日の出来事のように鮮烈だった。先生の赤ら顔は、たった今戦場から逃れてきた人の興奮がまだ残っているようだった。
小学校の卒業式の日に、梶原先生はみんなの前ではじめて歌を歌った。
  「白い花が咲いてた ふるさとの遠い夢の日
   さよならと言ったら 黙ってうつむいてたおさげ髪……」
梶原先生が真っ赤になって歌った白い花は、なぜか小さな白い花だった。中学になると校区も広がってクラスも増えたので、私はやっとシゲから開放された。シゲは何人かのワルのグループを作っていた。農家の子供らが家から米を持ち出して売ったりするのを真似て、彼も家からこっそり米を持ち出したりしていた。
シゲの家は農家ではなく、夫婦がリヤカーを引きながら古着や鉄くずを集める仕事だったから、米は買わなければならない貴重なものだった。シゲの悪事が見つかると派手な親子喧嘩が始まる。その頃にはシゲも体力が付いていたから親にまともに刃向かっていた。
シゲの父親はくやしがって「アイゴーアイゴー」と泣くらしかった。「アイゴーチョケッタ」とも泣くのだとシゲは口真似をした。東仁氏は興奮すると朝鮮語になるのだった。日本語も濁音が使えなかったから、感情の深い部分は母国語が占めていたのだろう。
シゲの父親は土木の技師だった。近所の崖に発破をかけたり、くずれたイデ(疎水)の石垣を組み替えたりすることがあった。家を新築した時も自分で崖を削って整地をしていた。新しい家はわが家の向かいだったので東仁氏の作業がよく見えた。彼は家の裏側になる崖を垂直に削りおえると、次はその一角に横穴を掘り始めた。ある程度奥に掘り進むと、今度は下に向かって掘っているようだった。幾日かたって出来あがったのは井戸だった。手で掬える程度の浅い井戸だったが、そこには澄んだ水が蓄えられていた。その変わった井戸は、もしかすると朝鮮風なのかもしれなかった。
シゲの米騒動はしばしばなので、東仁氏は一計を案じて、米櫃の米の表面をきれいにならすと、その表面に記号のようなハングル文字を指で書いておいた。こうしておけばシゲが米に手をつけたらすぐに判るはずだったが、シゲは米を掬いとったあと、ハングル文字をそっくり元のように書き写しておいたらしい。シゲの通学カバンはいつも重そうだった。
通学は玉来の町中を通っていくことになる。シゲは「貸席」という看板のある家に興味をもっていた。
「ここにいるおなごはみんなパンパンじゃ、そこらへんにサックが落ちチョルかもしれん」と言って、その家のまわりの溝を覗いたりしていた。そんな特別な家があることを私は知らなかった。
悪事をする時にはいつもシゲが一緒だった。ビワ園のビワを盗んだり、桃畑の桃を盗んだり、芝居小屋にただで入ったり、成功と失敗はつねに半々だった。大工の採石舟に乗って遊んでいて川に放り込まれたことがあった。川の水はまだ冷たかった。服を着たまま向こう岸まで泳ぎ着くと、あらん限りの悪態をつきながら川向こうの大工めがけて石を投げて逃げたものだった。
夏は泳ぎの合間に、シゲは砂浜でチンポを放り出すと自慰のやり方をみんなに教えた。「センズリをかく」と言いながら、彼は背中を丸めるようにして自分の行為に没頭した。
中学を卒業するとシゲはいつのまにか居なくなった。
何年かして再会したとき、彼の体つきや態度はすっかり大人になっていた。しばらく会っていなかっただけで、長いあいだ彼から受けていた威圧感のようなものもなくなっていた。
大阪の釜ヶ崎に居たのだが、やばいことがあって帰ってきたのだとシゲは言った。釜ヶ崎といえば浮浪者が多い所だが、そこでの自由で面白い生活をいろいろと話してくれた。チンポに象牙や真珠を入れる人間もいるのだという話をするとき、彼自身もそうしているように聞こえた。釜が崎の生活は好きだから、すぐにまた戻るつもりだと彼は言った。しかし最近はチンポが立たなくなったのがやばいと言って笑った。釜ヶ崎には私の想像を越えた生活がありそうだった。
そして彼はふたたび居なくなった。もういちど釜ヶ崎に戻って浮浪生活を続けているのか、それ以後のことは何もわからない。寒い冬の朝に浮浪者の行き倒れのニュースなどをきくと、ついシゲのことを思ってしまう。彼ももうそんな年齢になっているはずだ。
それとも公園の青テントの中で、嘘や本当がごっちゃになった話を、仲間たちに饒舌に語っているのだろうか。遠い故郷の山や川の風景や、少年の日々の記憶の断片は、彼の言葉の中でどのように誇張され、どのように美化されているのだろうか。



                              (第1部 完)
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