プロローグ父の四十九日の法要のため九州に帰った折、ほぼ50年ぶりに、私は山の上にある先祖の墓を見に行った。墓はお参りに行くものであるが、その時の感覚ではまさに見に行ったのだった。わざわざ雑草をかき分けてお参りをするには、50年という歳月は大きすぎて、仏たちとの間にすっかり距離ができてしまっていたのでした。 同行した妻と妹が、墓地の雑草を刈り取って掃除している中で、私はひたすら墓石の苔をこすりながら、消えかかった碑銘を手帳に書き写していった。 私の子供の頃からの疑問であったのだが、この墓地には河野家と砂田家という2軒の家の墓石が混ざって建っていた。今度行ってみると、河野家の墓はいずれも古く、もはや碑銘も読めないほど石の表面がすり減った墓もいくつかあり、砂田家の墓は比較的新しかった。 父の墓は別の場所に新しく父自身が建てていたし、砂田家の墓も、広島で生活している息子たちが近くに墓を建てたので、近々向こうに仏たちを持っていくという話も出ていた。いずれこの墓地はこのまま取り残されてしまうかもしれないという思いから、とにかく記録だけは残しておこうと考えたのだった。 大阪に帰ると、さっそく私は手帳の整理を始めた。手帳には墓石の苔の匂いがまだ残っていて、墓地での作業がそのまま続いているようだった。走り書きした墓石のひとつひとつの戒名や生前の名前、没年齢などを書き移しているうち、忘れていた幼少年期の記憶が呼び戻され、今まで遠くにいた仏たちが少し近づいてくるような気がした。 私の記憶の中に残っている人たちはわずかなのだが、私のまったく知らない人たちも、ある時代のある瞬間、それぞれに生きていたのだ。どのような環境でどのような人生を送ったのか、残された記録はほとんどない。その人たちの生きた証しは、限られた親しい人たちの記憶の中に残されただけだが、それもまた、その人たちの死によって消えてしまうものだった。 石でさえいずれ風化するものであるから、それはそれで自然のことなのかもしれない。けれども、消えていくものを何らかの形にして残せるものなら残したい。そんな思いも次第に強くなっていくのだった。 少年の日々の記憶の断片が、少しずつ陽が当たるように照らし出され、懐かしい人々の声が遠くから聞こえてきた。50年という歳月の向こうに置き忘れていたものが、古い包みのように私のもとに届けられたようだった。 そして今、消えていこうとする風景への、熱い鎮魂の思いにかられながら、私はキーボードを叩き始めた。 1999年6月 |