おタマちゃんと水島将軍




おタマちゃんというのは女の乞食で、水島将軍というのは男の乞食だった。だが、彼らは物乞いをして歩いていたわけではないから、乞食ではなく単なる浮浪者だったのだろう。私たちは、彼らのことを「カンジン」と呼んでいた。
おタマちゃんというのは比較的若い女のカンジンだった。彼女は汚れた着物を何枚も重ね着して、手にはいつも大きな風呂敷包みをぶら下げていた。彼女は子ども達がはやし立てると、汚れて長い髪を振り立てながら追いかけてくるのだった。ときどき妙な振りで踊ったりもしていたから、少し気がふれていたのだろう。足元の定まらない歩き方で、どこへ行くともなくふらふらと歩いているのだった。
水島将軍というのは、ライ病に罹っていた。将軍という名が付いていたから、あるいは元は将軍だったのかもしれない。ライ病という病いが彼の人生をカンジンにまで落としてしまったのかもしれなかった。彼は子ども達のからかいにものってくることはなく、不自由な足を引きずりながら、いつも黙って通り過ぎていくのだった。
カンジンがどこから現れてどこへ向かっていくのか誰も知らなかった。彼らはある日忽然と道に現れ、再び忽然と消えていくのだった。カンジンが現れると、子ども達は遊びを中断し、彼らが通り過ぎるまではやし立て、やがて自分らの領域からカンジンが去っていくと元の遊びに戻るのだった。まるで通り雨が過ぎていくようなものだった。
道路は大分と熊本をつなぐ古くからの街道だったが、当時は車もほとんど通ることはなかった。たまに通るのは馬車と、竹田に1台か2台あったハイヤーと木炭バスくらいのものだった。木炭バスは車台の後部に木炭を燃やすタンクを載せていた。タンクにはかぎ型のハンドルが付いていて、シゲと2人でバスを追いかけながらハンドルを回していたら、バスが急に停まって運転手が降りてきてきて叱られたことがあった。木炭バスは子供の足でも追いつけるくらいのスピードだった。
馬車は細長い荷台を馬が引くもので、おもに木材を運んでいた。空馬車の時には、荷台の後ろの方から子どもたちが乗っても、馬車引きは黙っていた。馬はところかまわず放尿をするので、道路は水浸しになり、遊びのために引かれた目印の線が消されてしまう。馬や牛が落としていく糞は、大人達が塵取りですくい取って畑の肥やしにした。
道路は子ども達の遊び場だった。
道いっぱいに大きな三角形の線を引いて野球をした。切通しの道がグラウンドだったので、両側の崖がネット代わりになった。ボールは、ズイキ(里芋の茎を乾燥させたもの)をぐるぐる巻きにして作った。ズイキはスポンジ状になっていて、空気を含んでいるので弾力性があり、ボールの代用としてはよく飛んだ。バットは竹の棒だった。
地面に四角い大きな線を引いた時は、瓦を蹴ったり投げたりして遊ぶ瓦蹴りだった。瓦のかけらはどこにでもころがっていた。桝目を引いたらケンケンパー。円形の線を引いて陣地を決めたら戦争ごっこ。クチク(駆逐)やスイライ(水雷)を帽子のひさしの向きで決める。その時どきに集まった子ども達の顔ぶれで遊びは決まった。
家の前の道はそれぞれの家で竹ボーキで掃いて掃除をする。夏は道路わきを流れるイデ(疎水)の水をひしゃくで掬って道路に打つ。イデは年に一度、イデ普請というのがあり、この時は上流で水が止められるので、子ども達はイデに入ってドンコ取りをする。石垣の穴に潜り込んでいるドンコを、手をつっこんでしっかり掴んで穴から引っぱり出す。ヌルッとしたドンコの感触と、獲物を捉えた時の昂揚感が忘れられない。
秋の初亥の夜だったろうか。紙梳き屋の辺りの子どもらが賑やかに回ってくる。同級生のイワちゃんもその中にいた。ワラを束ねて棒状にしたものを手に持っていて、それを各家の前の地面にたたきつけながら唄う。
  「亥の子の今夜 祝わぬ者は
   鬼産め 蛇産め」
まだ、そんな収穫の祝いが残っていた。
阿蔵の神社は、紙梳き屋の横の石段を登ったところにあったが、祭りの日には子どもの相撲大会があり、勝ち抜きをして最後に残るのは、老浪という家の体格のいい子供だった。
神社の近くには琵琶法師が住んでいた。琵琶を背中にかつぎ、よれよれの法衣を着た坊さんが、ときどき前の道を通りすぎていくのを見かけた。どこへ行ってどんなことをしているのか、いつも急ぎ足で通り過ぎていくのだった。
ときには、リヤカーに乗せられた病人が運ばれていく。きっと遠くの山奥から出てきたのだろう、リヤカーを引く人も乗せられている人も、どちらも病人のようにうなだれていた。
街道沿いには下駄屋や傘屋があった。下駄も傘も生活の必需品だった。豆腐屋、醤油屋、自転車屋、風呂屋、製材所などがあった。学校帰りにいつも大工や鍛冶屋の作業を見ていた。
冬は道路に霜柱が立った。下駄を履いて通学していたので、霜柱を踏みながら小学校の門をくぐる頃には、足袋の指先が濡れて凍えそうに冷たかった。学校には暖房の設備もなかったから、足の指先は1日中凍えたままだ。高い山に囲まれた環境だったから冬の寒さは厳しかった。空が晴れていても、久住山や祖母山の雪が風に運ばれて吹雪のように舞った。
正月は新正月と旧正月があった。農家は旧正月の方が大事だったから学校はどちらも休みだった。新正月で歳をとって、旧正月はカキモチを搗いた。寒さは旧正月の頃がとくに厳しく、正月を忘れた頃に獅子舞いがやってきた。
正月は大人も一緒になって凧揚げや羽根つきで遊ぶ。大人と一緒に遊べるのは正月だけだった。コージさんが障子のような大凧を作ったことがあったが、重すぎて風に乗れず、とうとう空に上げることはできなかった。
田んぼの水路に子ども達の足が向くようになると、季節は春に近づいている。水はまだ澄んで冷たそうだが、水草の下に見えかくれするドジョウのヒゲを見つけては、泥の中に手を突っ込んで捕まえて遊んだ。
梅の花が咲く頃が稲荷神社の狐頭様の祭りで、3日間だけは人通りが多い。参道にはイカ焼きのいい匂いがして、針金のゴム鉄砲や火薬玉のピストルを売る店、インチキ将棋や蜘蛛女の見世物小屋などがかかる。恒例のくじ引きで、小学生の私が特等の千円を当てたことがある。赤い鳥居の並ぶ石段を登りつめた境内ではお神楽が舞われている。鬼のような面をつけた長い髪のドタ(荒神)が、子どもばかりを追いかけてくるので恐かった。
お神楽はどこの祭りでも舞われていたが、ときどき思い出すのは、街中の祭りで見られたトオリモン(通り物)という仮装行列のことだ。さまざまな趣向をこらした仮装をして、鉦や太鼓、三味線などの囃子と共に長い行列を組んで巡ってくる。蛇行しながらゆっくり進んでくる奇想天外な仮想に、異界の景色を見るようで恐ろしかったりおかしかったりした。
子ども達の遊びの合間に、遊び場の道路を通りすぎていったもの、それらはすべてトオリモンだったかもしれない。おタマちゃんも水島将軍も、そのほかのカンジンたちも、琵琶法師も馬車もチンドン屋も、トオリモンの行列に混じって通り過ぎていった、遠い日の仮装だったような気がしている。

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