釣り名人




叔父である砂田弥市のことを、私たちは弥市兄ちゃんと呼んでいた。この呼び方はその後ずっと変わることなく、最後に、叔父のことを幾分恥ずかしい思いで弥市兄ちゃんと呼んだ時、叔父はすでに70歳を過ぎた老人だった。
弥市兄ちゃんは砂田家の9人兄弟の末っ子として生まれた。男が5人、女が4人だった。上の3人の子供は早く死んだ。どうしたわけか年頃になると死んでしまうと言って母親が嘆いたそうだ。長女のマサ子は20歳、長男の義雄も20歳、次女のシズ子が13歳、数年のうちに相次いで死んだ。その後も、3男の清市が24歳、4女の照子が33歳、母方の河野姓を嗣いだ次男の重夫が42歳で死んだ。このような短命の家系の中で72歳まで生きた弥市兄ちゃんは長命の方である。
次男の河野重夫には6人の子供、3女の北出つる子には4人、4女の大江照子には5人、5女の山田ヨネにも5人、それぞれ子供が出来た。これらの子供たちにとって、末っ子の弥市兄ちゃんは比較的年齢も近く、叔父というよりも兄弟に近い感覚から、いつのまにか弥市兄ちゃんという呼称が定着したのだろう。
私にとって、弥市兄ちゃんには優しい面と恐い面があった。優しいところは叔父としての優しさであり、恐いところは兄貴のような恐さだったかもしれない。叔父と兄貴とが同居していたといえる。怒りっぽい性格の彼に何かを断定されると、ほとんどの場合に反論ができず、そうでない場合でも、いつのまにかそうなってしまうようなところがあった。弟として、どうしても兄貴には逆らえないところがあったのだ。だから、いろいろな面で兄貴の真似をすることが多くなった。釣りに関しても、名人の兄貴を追いかけた。
弥市兄ちゃんは七輪の炭火で、釣ってきたハエ(ハヤ)を串に刺して焼く。串に刺したハエは串ごとに大きさがきちんと揃っていた。川魚の香ばしい臭いが家中に満ちていた。焼き加減も決して焦がすようなことはなく、焼かれても魚は適度に油が浮いて輝いていた。彼の魚は焼かれても別物のようだった。
彼は細い葦の茎で釣り用のウキを作る。葦の茎は軽くて水に浮きやすいのだ。直径が五ミリほどのものを長さ15ミリほどに短く切って、その中心の部分にカミソリの刃で浅く切り込みを入れる。この部分にテグスを巻き込むようにするとウキはしっかり固定される。ウキをできるだけ小さくするのは川魚の微妙な魚信をすばやくキャッチするためだ。ウキが小さくなれば、重りも小さくしなければならないし、重りが小さくなれば、水の抵抗を少なくするためにテグスも出来るだけ細くしなければならない。必然的に竿も腰の柔らかい細いものになる。
子供らが同じ装備をすると、テグスはすぐに絡まって切れてしまうだろうし、ウキは投げ込んだ勢いでどこかへ飛んでいってしまうだろう。それでも私たちは出来るだけ名人に近い装備をして、彼の後からくっついていくのだった。
瀬釣りという釣りがあった。この仕掛けの特徴は、テグスに小さな目印の綿をつけることだった。川虫のエサを針につけ、川の瀬を流しながら釣っていくのだが、この釣りでは、綿の目印の微妙な動きに神経を集中しなければならない。瀬の流れの動きでもない、風の動きでもない、川底の小石に引っかかった動きでもない、魚がエサをくわえた瞬間の微妙な感触を察知して、すばやく竿先を合わさなければならない。川釣りの中では難しい釣りだった。同じ瀬を釣っていても、弥市兄ちゃんのタモ網はどんどん魚の固まりで膨らんでいく。釣り方にどんな違いがあるのかわからず、いつも悔しい思いをしなければならなかった。
新緑の季節になって、シノブ竹の若竹が出てくると、弥市兄ちゃんは裏の竹山に入っていく。まだ枝を出していない、まっすぐなシノブ竹を切り取ってきて、裏の小屋に束ねて立てかけておく。皮が乾燥して丸まってくるまでそのままにしておく。やがてシノブ竹が十分に乾燥したら皮を剥き、七輪の弱い炭火であぶって竹の油を抜き、ひずみやくせを直していく。竹の肌をぼろ切れで包むようにしてこすっているうち、表面の焦げ目が艶になって輝き始め、まっすぐできれいな釣竿が完成する。継ぎ目のない一本竿である。
弥市兄ちゃんは釣り具の店を開いていたから、この竿も商品として店頭に並べられていくものだった。新商品の細くて強いナイロンテグスを、貴重品のようにていねいに扱う彼の手つきを、私たちはそばで見とれていた。テグスが買えなくて木綿糸で釣りをすることもあった頃だから、ナイロンテグスなど子供が手にできるものではなかった。
弥市兄ちゃんの釣具店はあまり商売にはなっていないようだった。釣りをするほど暇のあるのは子供しかいなかったし、子供相手では単価もしれていた。私など釣針の数をごまかしていた悪い客だ。たまに来る大人の釣り客なども、弥市兄ちゃんから釣り情報を聞いて帰るのだが、いざ出かけてみると釣果はさっぱりで、そのまま釣りにのめり込んでしまうことにはならない。川魚は繊細だから、魚はいても微妙な釣り方の違いで、誰でも釣れるとはかぎらないのだ。
私たちも弥市兄ちゃんの釣り情報を聞いて出かける。恵良(えら)でカマスカが釣れると聞くと山道を抜けて恵良川まで出かける。魚住のダムでフナが釣れると聞くと、釣り場はダムの草むらになる。釣りで退屈するようなことはなかったから、私たちはかなり名人に近づいていたのかもしれない。
玉来には釣り名人がもう一人居た。
森永さんという人だが、弥市兄ちゃんとこの人とは釣る魚も釣り方も違っていたから、ふたりはライバルではなかった。森永さんの釣り場は決まって赤淵の淀みの一角だったから、私たちは赤淵での泳ぎの合間、向こう岸の砂地に腹這いになって、森永さんの釣りを見ていたものだ。森永さんはひとところに座ったまま静かに釣っていたから、私たちも近くでは泳がないことにしていた。
夕方近くに、森永さんは竹薮をかき分けながら決まった場所に降りてきて竿を出す。そこだけ藪が切れていて、竿を操作できる空間ができていた。その場所は水が淀んでいて水深もかなりあった。この淀みの川底の砂を取ってくることが出来たのは、いとこの健夫とシゲのふたりだけだった。
森永さんの釣りの目的は鯉である。
エサはカライモ(さつまいも)で作った特製のものらしい。たまにエサを取り替えるために竿を上げるが、再び竿を置いたままにして静かにしている。私たちも見るともなく息を凝らして見ている。森永さんの釣りは大物狙いだから、まるきり釣れない日も多かった。しかし、鯉が針に掛かると、獲物が上がってくるまでの格闘は見ごたえがあった。竿は弓なりになったままで、右へ左へと引っ張られていく。そうやっている時間が長いほど大物だった。やがて水面にしぶきがあがり、大きな黒っぽい固まりがタモ網にすくい上げられる。
森永さんの釣りは、子供たちには出来ない静かで根気のいる大人の釣りだった。一方、弥市兄ちゃんの釣りは子供たちにも出来る軽快な釣りだった。だから、子供たちにとって身近な名人は弥市兄ちゃんだった。
弥市兄ちゃんは短気で怒りっぽく、息子の英昭はいつも父親を怖がっていた。とくに体調が優れない時など、とばっちりの被害が家族に及ぶこともあったようだ。
釣りは一見のんびりした遊びのようだが、本当は短気の方が合っている。森永さんの釣りとは違って、特に弥市兄ちゃんの釣りはそうだったと言える。釣り師は川の水量や流れの状況に応じて、川魚の細かくすばやい動きを読まなければならない。魚がエサに食いつく瞬間を、今かいまかと待ちかまえていなければ一瞬のタイミングを失することになる。この緊迫した魚との駆け引きこそ釣りの醍醐味と言える。そして、この緊張感が緩んだ時、川はただの流れに過ぎなくなり、急に疲労感に襲われた釣り師は仕方なく竿を納めることになる。
私が東京で暮らしていた20代の頃、弥市兄ちゃんの一家は、九州の家と土地を売って、妻の郷里である広島へ越していった。
弥市兄ちゃんが死んだのは平成3年の12月のことだが、同じ年の1月に、大阪で大江の伯父の葬儀があり、そのとき久しぶりで会ったのが最後になった。学生の頃、広島で会って以来だから30年ぶりだった。
かつての釣り名人は痩せて背中も落ち、入れ歯のせいか口元がすこしいがんでいたけど、端整な顔立ちはそのまま残していた。好きだった釣りの話を始めると、目が輝いて体が前に出てくるみたいだった。遠い日の川釣りの懐かしい話ばかりだった。だが、どんな釣り名人も、そばに川がなければハヤ1匹も釣ることは出来ない。
「もういちど、玉来の川で釣りをしたいのう」
弱々しい言葉を吐くのが精一杯だった。そして、そのひと言だけが、後に残った。

inserted by FC2 system