金ちゃん




都会で空襲が激しくなった昭和20年の冬、父が兵役に取られていた私の一家は、大阪を引き払って九州の母の里へ疎開した。
そのとき私は6歳で、2人の妹が3歳と2歳、2歳の妹は母の背中に負われ、私と3歳の妹が母の両袖をしっかり掴んでいたという。大阪の天保山から船に乗った時のことはほとんど憶えていないが、長い桟橋を大勢の乗客に混じって夢中で駆けていたような記憶がある。
母の里では祖母が、雪の中を乳母車を押して駅まで迎えに来てくれたらしい。祖母の家にはカキモチが干してあったそうだから、旧正月の頃だったのかもしれない。
祖母の家では、伯母の家族も大阪から戻っていたので賑やかだった。私は眼を病んでいて、朝は目ヤニがくっついて目が開けられなかった。慣れない家の中を手探りで歩いて、襖にぶつかってみんなに笑われたのを憶えている。
まもなく私の一家が住んだ家は、祖母の家がある街道筋からすこし入りこんだ山あいの、簡易な造りの2階建て家屋の1階部分だった。入口の重い板戸を開けて入るとそこは狭い土間の台所で、正面にかまどがあった。かまどの後ろの壁は、今では古い民家でしか見かけないような、板が格子状に打ちつけられた引き戸の窓があって、かまどの煙はそこから外へ出ていくようになっていた。部屋は狭い部屋がふた間あって、裏の田んぼに向かって押し上げて開く板の開き戸があり、昼間はつっかえ棒をして開けたままにしてあった。私はこの窓から裏の暗闇を青白い人魂が飛んでいくのを2度ほど見たことがある。細長い田んぼを挟んで両方が雑木の山で、山の上には墓地があった。
家の前には井戸があった。水質が良くなかったのか、ポンプの排水口には布の袋が被せてあった。この井戸を3軒の家族が共同で使っていた。
2階には朝鮮人の家族が住んでいた。夜になると2階にいる人の重みで、わが家の間仕切り戸が動かなくなる。母がそのことを気にして、子供たちを奥の寝間にせきたてるのだった。
向かいの馬小屋の2階には、福岡から疎開してきた佐藤の家族が住んでいた。2歳ほど年上の武彦ちゃんという子がいたので、よく遊びに行った。一階の台所のわきにある階段を上り下りするのが楽しかった。ときどき馬の甲高い鳴き声や、壁や床を蹴る蹄の音が2階まで響いてくる。床下にいつも大きな生きものの気配がしていた。
家の横には細いイデ(水路)があった。裏の山や田んぼの水が流れ込んでいた。石ころや砂で流れをせき止めて簡単な洗い場にもなっていた。見慣れない不思議な形をした、小さな水棲昆虫やオタマジャクシがいたので、この場所を私は気に入っていた。
一方の土手のそばには、子供の背丈ほどの大きな丸太が置き去りになっていて、その上に這いあがって遊んだりした。岩肌がむき出しになった崖の部分には、よくホタルブクロが咲いていて、それが花なのか昆虫なのか、私は見分けることが出来なかった。
ある強い風の吹いた翌朝、雨戸の戸袋の溝に1センチほどの小さな小人の帽子のようなものが落ちていた。私はきっと何か小さな生きものの帽子にちがいないと思った。それが椎の実のカサの部分だとわかったのは、だいぶ後のことだった。
大阪の都会から九州の田舎へ、私を取り巻くものが大きく変わったのだ。風景が変わり、言葉も変わっただろう。いろいろな形や動きのひとつひとつに、少年は戸惑ったり驚いたりしていたにちがいない。
疎開した時の荷物の中に、きれいな色紙や色のついた紐などがあり、裁縫箱の小引き出しの中に入れてあった。私は外に出る時は決まって、この色紙や色ひもをこっそり持ち出した。
その頃、子供達の遊び場は、私の家のすぐ横にある山の斜面だった。カヤや芝のような雑草が一面に覆っている急勾配の斜面を、薄い板片を尻の下に敷いて滑降するのだった。板片は舟底のように反っており、板片の腹には滑りやすいようにロウが塗ってあった。大きな子供達はそれぞれ自分専用の板片を持っていた。板片を持たない私は仲間に入れない。ただ見物をするだけなのに、いつも色紙や色ひもを持っていかなければならなかった。田舎の子供達には珍しいものだったし、みんなに近付ける手段が私にはそれしかなかった。
ある日、やっと滑らせてもらえることになったが、それは板片で滑るのではなくて炭俵に入れて転がされたのだ。斜面の麓で止まった時、私は目が回ってしまって、しばらくはどんな事態が起きたのかわからなかったが、それでもやっと仲間に入れた気がして嬉しかった。そんなことがあって私は小さな板片をもらった。小さな板片は反りがほとんどなく、滑ろうとするとすぐに草を噛んで止まってしまい、板片を残したまま尻だけで滑ってしまうので、ズボンの尻が草の汁と土で汚れてしまうのだった。
その年の春、私は小学校に入学した。ノートを持っていなかったので、担任の松尾先生がワラ半紙を何枚かくれた。それを家に持ち帰ると、縫い針と糸を使って簡単なノートを作った。けれども、このノートはあまり活用できなかった。
九州の田舎にも空襲が始まる気配で、学童は部落ごとに集まって勉強をしなければならなくなり、私の地区では馬小屋の二階の、武彦ちゃんの家が臨時の教室になった。最上級生が班長になって下級生を指導する。1年生の私はまだ字を習っていないので国語の本も読むことができない。そんなことはおかまいなしで、班長は手に持った竹刀を私の頭上に振り下ろす。それが班長の指導だった。
馬小屋の隣りの物置小屋で、しばしばワラ草履を編む実習が行われた。最初は下級生はひたすらワラ打ちばかりで、なかなか草履は作らせてもらえない。太い丸木の上に束にしたワラを置いて、少しずつ水をかけながら大きな木槌で打つ。ワラの繊維がつぶれてしんなりと柔らかくなるまで打ち続けなければならない。柔らかくなったワラでまず縄をなうのだが、上級生は両方の手の平をすり合わせるようにして上手にワラをなっていく。見ていると簡単だが、一定の太さの縄をなうことができるまでには時間がかかった。
草履はまず縄で小さな輪を作り、伸ばした両方の足の親指に引っかけ、手元に引いた四本の縄にワラを通しながら編んでいく。どうにか真似事が出来るようになっても、通したワラの締め付けに力が入っていないので、ただワラを編んだだけのいびつな固まりしかできない。さらに最後に縄の先の部分を締め付けてみると、手の平くらいの小さな草履しか出来なくて、それではまるで牛の草履だと言ってからかわれる始末で、私はついに牛の草履から卒業できなかった。
ある日の実習はポンポン草取りだった。ポンポン草の正式な名称は知らないが、一本の茎に小さな丸い葉を幾枚もつけた1メートルくらいの草木だった。ポンポン草は野外のいたるところに繁茂していた。
収穫したポンポン草は葉をむしり取ったあと、茎の部分の皮を剥いて天日で乾燥したものを学校に供出する。それが国防色の学童服になって配給されることになっていたが、私の順番はとうとう巡ってこなかった。
この日のポンポン草取りは、ときわ橋の近くの、国鉄の線路の土手だった。採集中に空襲警報のサイレンが鳴り出したので、みんな家の近くの防空壕をめざして一目散に走った。頭上で飛行機の轟音がした。爆撃音がして爆弾が落ちたような地響きもした。初めての経験だった。この時は拝田原の中島軍需工場とときわ橋の鉄橋が狙われたということだったが、どちらも外れて爆弾は川の中に落ちた。
B29の小さな機影をはるか上空に見ることもあった。B29というアメリカの飛行機の性能は優れていて、日本の戦闘機では及ばないほどの高度を飛べるのだという噂だった。近くの空中戦で、明治という所にアメリカの飛行機が落ちたというニュースが流れた。この地方でも、戦争の影は次第に濃くなっているようだった。
当時、私たちの町には朝鮮人がかなり住んでいた。堀切地区の狭いところでも朝鮮人の家族は3世帯か4世帯住んでいた。空襲警報が出ていても朝鮮人は避難もせず、白いチョゴリを着たまま平然と道路を歩いていた。彼らは戦争をさほど恐がってはいないようにみえた。大人同士がしゃべっている言葉は分からなかったし、親たちが子供を叱る朝鮮語は早口で迫力があった。
朝鮮人の子供達は、朝鮮コマという円錐形の手作りのコマを上手に回していた。直径五センチほどの丸太の先を円錐形に削り、その部分を切り取ったもので、細かく裂いた桑の皮を細い棒の先にくくりつけた鞭でコマの腹を巧みにたたきながら回転させる。鞭の先がうまい具合にコマの腹に絡まり、鞭を手元に引く勢いでコマに回転力をつけていた。小さなコマに狙いをつけて振り下ろす鞭のさばきには、独特の気迫がこもっていた。うなりをあげて回転するコマとコマをぶつけて戦う、それは遊びというよりも喧嘩のようだった。
ある日彼らは、空き家になった馬小屋に集まって、バケツや洗面器を打ち鳴らしながら大声で歌って騒いでいた。私の知らない、彼らだけが歌える朝鮮語の歌だった。
「アリラン カリラン アラリヨ ナムカンダ」
繰り返し歌われる歌の文句の一部分が私の耳に残った。
戦争が終わり、故国へ帰ることになった朝鮮人のために、町中の芝居小屋で盛大な送別会が行われた。
2階に住んでいた朝鮮人の一家も帰ることになった。その家族には私より1歳か2歳年上の金ちゃんという子がいた。金ちゃんは1人っ子で優しい子だった。同じ家の2階と階下に住んでいたせいか、私も金ちゃんに兄のような親しみを持っていた。金ちゃんはお別れに、大事にしていた肥後之守を私にくれると約束してくれた。
肥後之守というのは折りたたみ式のナイフのことで、ケースになる部分に肥後之守という大きな文字が彫り込まれてあった。男の子たちのポケットには肥後之守が入っていた。肥後之守があれば竹トンボや竹笛を作ることができて、それだけ遊びの領域が広がる。私も肥後之守が欲しかったのだ。私は金ちゃんとの約束が嬉しかった。
金ちゃんの家族は朝早く発つので、肥後之守は金ちゃんの家の神棚に置いていってくれることになっていた。
その朝、私は目が覚めるとすぐに約束の神棚に向かった。
神棚は2階に上がる階段のそばの天井近くにあることを普段からよく知っていた。しかし、いくら探しても肥後之守は見つからない。空っぽになった神棚の狭いスペースには何ひとつなかった。
後日知ったことだが、金ちゃんは武彦ちゃんにも同じ約束をしていたのだった。
肥後之守は、その時、私より早起きをした武彦ちゃんのものになったのかどうか、そのことは今では定かではない。ただ、それから数年後、武彦ちゃんの一家が以前住んでいた福岡へ帰ることになった時、その頃、私たちの間ではピンポンが流行っていたのだが、武彦ちゃんはそれまで愛用していたピンポンのラケットを私にくれたのだった。
両手を後ろに隠すようにして近づいてきて、武彦ちゃんは私の前にラケットを突き出した。そのときの嬉しさを、私はいまも忘れることができない。

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