かぼちゃの花




照子伯母が死んだのは、8月の暑い日だった。
伯母の鼻に詰められた白いワタが、離れたところからでも見えた。その回りを子どもたちが取り囲み、うなだれて泣いていた。長男の健夫が小学校6年生で摂子が5年生、その下に3人の男の子がおり、1番下はまだ赤ん坊だった。
伯母は33歳だった。結核は不治の病だった。食糧事情も悪く、人は脚気になったり結核になったりした。アメリカには結核の特効薬があると聞き、マサ子さんがサンフランシスコの身内から送ってもらったストレプトマイシンを、照子伯母は自分で注射器を持ち、細くなった腕に針を刺していた。
伯母はいつも裏庭に面した部屋に寝ていた。体調が良さそうな時は、フトンの上に斜めに起こした体を片方の腕で支えるようにして、障子を開け放ったままぼんやり庭を見つめていた。伯母の視界の中には、一本の大きな柿の木とゴミ捨て場、細長い畑と、そのうしろには竹薮しかなかった。
伯母は咳き込むと庭に向かって痰を吐いていたので、地面はその部分だけいつも湿ってにぶく光っていた。私が行くと、「おばちゃんが死んだらみんなと仲良うしてや」と言うのが口癖だった。みんなというのは伯母の子どもたちのことであり、私にとってはいとこ達のことだった。
大江の家とわが家とは一軒の家を2つに分けて住んでいた。
実家である砂田の家とは地続きで、それまで住んでいた朝鮮人の家族が、終戦になって朝鮮にひきあげたので空き家になっていた。そこに、私の家族と大江の家族がひとつ家に一緒に住むことになったのだった。
引越した時は、どちらの家族も父親がまだ復員する前だった。2階部分は放置されたまま、一階部分をふた家族で分けて使用した。道路に面した方を私の家で使った。6畳の和室と同じ6畳くらいの板の間があった。和室の前は板張りの縁側で便所に通じていた。わが家の方には台所がなかったので、縁側の端にストーブのようなコンロを置き、そこで母は煮炊きをしていた。縁側の雨戸を開けると小さな庭があり、ツバキとキンモクセイの木があった。春にはツバキの花にメジロが集まり、秋にはキンモクセイがよく香った。それに、背の高い細い杉の木が一本あった
大江の方には、和室が二間と板の間があり、土間には流しとかまどがあった。台所の土間はそのまま裏庭と表の道路に通じていた。
1軒の家を2軒に分けたので、それぞれ便利さと不便さがあった。わが家には十分な広さの便所があったが台所がなく、大江の方には広い台所があったが、小さな便所しかなかった。
裏庭は共同で使っていた。梅と柿の大きな木があった。梅の木はかなりの老木で、背丈は2階の屋根にまで達していた。毎年、稲荷神社の狐頭様の祭りがある頃、満開になった梅の花がいい香りを放っていた。柿の木はこの地方でガンザンとよばれる柿で、リンゴのように丸くて大きな実がなった。
柿の木の後ろの空地は、台風で倒れた古い馬小屋が放置されたまま、朽ちかけた屋根だけが草むらの中に残っていた。その一角は、わが家と大江のゴミ捨て場になっていて、釣り餌用のミミズをゴミの中から掘りだしたりしていた。
ゴミ捨て場は自然に腐葉土ができて、夏の頃になるとかぼちゃのツルが伸びて花をつける。やがて花の下についた実が次第に大きくなっていく。誰が植えたものでもなく自然に生えてくるのだが、ゴミの山を全部覆ってしまう勢いで、夏の間、ゴミ捨て場はかぼちゃ畑になってしまうほどだった。黄色い花と大きな葉っぱのざらざらした手ざわり、今でも懐かしい風景のひとつだ。
隣りの砂田の裏庭との間には垣根があったが、開き戸のカギはいつも開いていた。この繋がったスペースを、自分の庭のように3軒の家で自由に行き来していた。親がきょうだいであるということは子ども達もきょうだいに近い感覚になるのだった。垣根に沿ってツバキとモクレンの木が並んでいて、私たちはツバキの花の蜜を吸ったり、落ちたモクレンの花びらを口で吸って膨らませて遊んだりした。
砂田の家で風呂を沸かした日は入りに行く。風呂場は縁側からそのまま洗い場が続いていた。五右衛門風呂の木製の丸い底板の上に、バランスよく体重をのせて入るのが難しかった。焚き口からもれた薪の煙が湯船の湯気に混じってくる。熱い鉄の釜に体が触れないように体を縮めて入っていた。
ふだんは、いとこ同士誘いあって町中の銭湯に行く。丸い浴槽が中央にあり、その回りが洗い場で、奥まった隅にも、ちょうど子供が2〜3人入れるような小さな浴槽があった。お湯の出る蛇口など無かったから、浴場の裏の扉を開けて、誰かが「ヌリイガナ〜(温いよ)」と叫ぶと、釜焚きが慌ててオガクズを焚き口に放り込む。しばらく待っていると、湯口から熱いお湯が出てくる。女風呂との仕切り板の下が、上がり湯と水槽になっていて、男湯、女湯のどちらからでも使えるようになっていた。
照子伯母が死んでまもない頃だった。隠坊の池永さんも一緒に浴槽に浸かっていた。隠坊はいとこの方を指さしながら、この子の母親は美人だった、と誰かに話しかけていた。「あげな美人はそげんおらん」と自慢するような口振りでしゃべっていた。
伯母が美人だったかどうかは、まだ子供だった私にはわからなかった。
伯母が元気だった頃、伯母と母とで、大江の台所で大きな釜でタコを茹でていたことがある。2人はせわしそうに動き回り、釜の中では泡が沸き立ち、白い湯気とタコの生臭い匂いが台所に満ちていた。その時は夏だったのかもしれない、伯母は薄いシュミーズだけの格好で、下腹部のあたりに黒いものが透けていた。そのことが、初めて目にしたタコを茹でる光景と重なって、強く私の印象に残っている。
祖母の姉妹である河野サダという人は、玉来美人と言われたそうだから、どこかに美人の血が流れていたのかもしれない。彼女は34歳で死んでいるから、まだ美しかったままで死んだのだろう。伯母も同じような年齢で死んだ。
伯母が死んだ後は、長男の健夫と長女の摂子が、家事と弟たちの面倒をみなければならなかった。父親は耳が不自由だったし、行商に出て1日中家にいなかったから、健夫と摂子は交代で学校を休まなければならなかった。
まだ小学生の摂子は母親代わりだった。それまでも母親はほとんど寝たきりだったから、摂子は何かと親を手伝って家事のことには慣れていた。前の道路の向かい側にあった砂田の井戸を3軒で使っていたが、摂子はいつもこの井戸で米をといでいて、小さな手からもれた米粒が排水溝に流れ出したりしていた。井戸から家の水がめまで水を運ぶのは健夫の仕事だった。彼は両肘を曲げ、バケツから水をこぼさないようにしながら道路を幾度も横切っていた。
その頃、私の母も体が弱かった。「おかあちゃんもいつ死ぬかわからんき」と母はよく言った。そのたびに私は、深いところに落とされるほど不安になった。母親がいなくなっても健夫のように平気でおれるだろうか、朝早く起きられるだろうか、ときどき学校を休めるだろうか、仏のために駅裏の園福寺まで歩いて行けるだろうか、私には健夫のようにやれる自信はなかった。
わが家と大江家では1軒の家を分けて使っていたように、ほかのことでも2つに分けることが決まりのようになっていた。
父が裏庭に鶏小屋を作った時も、真ん中で仕切りをしてニワトリも二軒で分けた。わが家の方には、カラスとあだ名をつけた真っ黒なオスのニワトリがいた。他の鶏が生んだ卵を取るため小屋に入ろうとすると、トサカを立ててとびかかってくる凶暴な鶏だった。いつも棒切れで脅しながら卵を取らなければならなかったので、この分配の仕方は不公平な気がしていた。
わが家に掘りゴタツを作った時も、父は、大江の板の間にも同じものを作った。
父の大工仕事は少し雑なところはあったが、何でも自分で手がけ、仕上がりも早かった。わが家には十分な炊事をする場所がなかったので、庭を半分つぶして台所も父が自分で作った。屋根には杉の皮を葺き、庭に生えていた杉の木は切らずに壁から屋根の上に逃がしていた。かまどは赤土を運んできて塗り固めて造った。恵良へ行く途中の山道まで赤土を取りに行く時、私もついていったが、その後、父が掘り崩した山肌がむき出しになったままだったので、ここの土がわが家のかまどになったのだと、その道を通るたび気になった。
わが家と大江家とはほとんど障子1枚で隔てているだけで、その障子のひと桝が物を出し入れできる窓にもなっていた。この窓を通して、子どもたちは口げんかをしたりしたが、時にはいい香りのするコーヒーが差し入れされることもあった。戦前、大江の伯父は、大阪の江戸堀でハイカラなカフェを開いていたので、ときどきコーヒーをたてたりする習慣があったのかもしれない。
照子伯母はしきりに大阪の生活に戻りたがっていた。伯母の死後、「大阪へもういちど行かせてください」と書いた紙切れが神棚から見つかった。伯母は自分の体が回復することと、再び大阪で生活できることを、毎日神に祈っていたのだろう。その願いはついに叶えられなかったが、のちに子供達はみんな大阪へ出ていった。
2軒の家では子供の構成がまったく逆で、わが家では男が1人で女が4人、大江家では女が1人で男が4人だった。だから、私など大江の兄弟と遊ぶことの方が多かった。私は長男の健夫にアイスキャンデーをおごってもらったことがある。それは私にとっては、忘れることができないほどの出来事だったのだ。
アイスキャンデーは、四角い箱を自転車の後ろに積んで売りに来るのが普通だった。ノボリを立てて、小さな鐘を鳴らしながら1日に何度かまわってくる。いつもチリンチリンという音が蝉しぐれの中をゆっくり通り過ぎていくのを家の中で聞いている。わが家ではアイスキャンデーはぜいたく品だからめったに買ってもらえない。たまに買うことがあっても、1本のアイスキャンデーを包丁で切って分けて食べていた。私は一度でいいから丸ごと1本をひとりで食べたいものだといつも思っていた。それを健夫が叶えてくれたのだった。
近くに柳屋というアイスキャンデー屋が開店したばかりだった。店の前には大きな柳の木があった。店に入ると、健夫はシャーベットを2本注文した。その時私はシャーベットという名前を初めて聞いた。普通のアイスキャンデーは1本10円で、シャーベットは15円だった。ふたりは柳屋のイスに座ってシャーベットを食べた。普通のアイスキャンデーよりもやわらかくて、味も濃厚だった。大変な贅沢をしているような気分だった。健夫がどうしてそんなものをおごってくれたのかわからなかった。ふたりで何か悪いことをしているようで、その時のことは、その後誰にもしゃべらなかった。
健夫は中学を卒業するとすぐに大阪へ出ていった。それが先鞭となって、私たちは学校を卒業すると都会へ出ていくことが決まりのようになった。次の順番は長女の摂子だったが、彼女は末の弟の世話があったからなかなか家を出ていけなかった。私が知っている末っ子の和夫は、いつも鼻の下を汚していたが、ひと回りも年上の私などにも刃向かってくるような、向こう気の強い子供だった。
同じ兄弟でも、次男の啓之は、小学校1年生の学芸会で皆の前で手品を始めようとして、何が出来るでしょうと言ったきり泣き出してしまうような子供だった。高校生の頃は結核で休学したこともあり、体もあまり丈夫ではなかった。のちに神戸で商売をしていたが、2人の小学生を残したまま癌で死んだ。私達は長いこと音信がなかったが、死ぬすこし前に電話をくれたことがあった。再会を約束したが、成人した彼の姿を見ることはなかった。電話をくれた時はすでに体調を崩していたのかもしれない。
4人の男兄弟の中で、あまり目立たない子供が3男の孝一だった。幼児の頃、何かの病気で喉の手術をしたので喉頚に傷痕があったが、きれいな高音でよく歌を歌っていた。声がきれいなのは手術をしたせいだと言われていたものだ。
正月など、子供達だけで掘りゴタツに入ってカルタやトランプをするのだが、大江家の掘りゴタツは囲い板が外れかかっていて、縁の下にもぐりこんだ犬が私たちの足をなめたりするのだった。
大江の伯父は大工道具を手にしない人だったから、コタツにすきま風が入っていても頓着しなかった。耳が不自由なせいか、細かいことにはこだわらない磊落な性格にみえた。いつもにこにこしながら大阪弁でひとしきり世間話をすると、あとは人の話を聞いているのかどうか分らなかった。どうしても伝えたいことがある時は、耳元で大声で話しかけなければならなかったから、そうでない時は適当な話としてうなずいているのかもしれなかった。それでも、私が大阪で暮らすようになって、息子が生まれた時には、すぐに武者人形を届けてくれたり、父の還暦の祝いをするというと、どこからか駆けつけてくれたりした。
伯父は再婚することもなく、子供達がみんな家を出てしまった後も、しばらく九州でひとり暮らしをしていた。その人生のほとんどを妻の里で送ることになってしまったのだが、伯父の場合は5人の小さな子供を残されて、その生活の重さは想像もつかない。
照子伯母は暑い夏の九州で死んだが、それから40年ほどたって、伯父は冬の大阪で死んだ。晩年は息子の元で暮らしていたが、軍人恩給なども入り比較的自由な暮らしをしていたようだ。
かぼちゃの花が咲いていたあの家での歳月は、川の上流で孵化した稚魚達が、ごっちゃになって育ったときだったように思える。そして成長して、それぞれに川を下っていったのだが、川の流れは、そのまま時の流れでもあった。

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