春がすみ




私の東京行きは3月15日に決まっていた。ちょうど前日が18歳の誕生日だった。この日、羽田と平野と3人で久住高原へ行った。羽田は九州電力に就職が決まり地元に残ることになり、平野は大学進学のため大阪へ行くことになっていた。それぞれ離れてしまうので、以前に3人で行った久住高原に、最後にもう一度行くことになったのだった。
前に行った時は自転車だった。久住高原までは上りの道だから、往きはほとんど自転車は押していかなければならなかったので、今回は竹田からバスに乗った。自転車をやめてバスに乗るということが、ひとつの卒業であるような気がした。
高原の入口でバスを降りて、以前と同じ道をたどって高原に出た。高原を吹く風には爽やかさと冷気が混じっていた。しかし、大きなうねりの草むらを登っていくとすぐに汗をかくほどだった。ふり返ると、春がすみの中に遮るものはなく、なだらかな風景が波うつように広がっていた。遠く低くなるほど視界の中の春がすみは濃くなっていた。目の前の風景をしっかり記憶しようとしても、この季節はあらゆる景色がすでに記憶のようにぼんやりしているのだった。いくつもある山々のくぼみの、深く沈んだ底のあたりに3人の視線は注がれていた。
私はこの数日、毎日あてもなく近くの山を歩き回っていた。まわりの風景はいつも春がすみに覆われて単調だった。阿蘇の中岳から昇るやわらかな噴煙もかすみの中に溶けようとしていた。外輪山が広大になだれてくる風景の中を、汽車の吐き出す蒸気がとぎれとぎれに縫っていくのがみえた。
私達は種畜場で絞りたての濃い牛乳を飲んで展望台の方へ歩いた。以前に来た時の記憶をなぞるように、すっかり同じことをしているのだった。牛乳は変わらずに濃かった。農事試験場の貯水池ではマスが勢いよく泳いでいた。細い清流がところどころ高原を割って流れていた。水際ではユキヤナギが花をつけ、黒土にしつこく靴を汚された。広い高原には種蓄場の他には何ひとつ建物はなかった。ひとつだけ目立つ三角形の溶岩風の岩があった。以前にその岩に刻んだ自分達の名前を探したが、ほとんど消えかかって読めないほどになっていた。私達は、あらためて石でなぞって刻印を新しくした。再び確認できる日がいつのことかは分らなかった。
数日前にコージさんが町を出て行った。途中まで見送りがてら、いとこの啓之と3人で阿蘇山に登った。コージさんは佐藤の製材所では最古参だった。山奥の木材の切り出し場で、数人の男たちと働いていた。冬は寒さで水も凍ってしまうから顔も洗わないという。飲み水は氷を溶かすといった生活で、彼は狂ったように大声を出して暴れることがあったという。そんな山奥の生活は若い彼には限界だった。その頃コージさんは摂子にプロポーズしたが、それは摂子を戸惑わせただけだった。
私もまた、この町での残された時間は少なくなっていた。
私達は石の刻印を終えると、展望台の麓の草むらで弁当を食べた。私の弁当は遠足の時のように、母がかなり気を使って作った弁当だった。
母はこのところ毎日、私が東京へ持っていくフトンを縫っていた。昼は決まったようにうどんを作り、私のうどんの中には卵が入っていた。母はしばしば首が締められるようだと言っては、嘔吐するような仕草をすることがあった。医者にかかっても病名はわからず、ときには神がかりになって、ある祈祷師に先祖の祟りだと言われると、白木の位牌を置いて般若心経を唱えたり、また誰かに、仏も居ないのに位牌を置くのは良くないと言われると、そちらの方も信じてしまうほど心身ともに弱っていた。
父は競売のある日は熊本や延岡の方まで出かけることもあり、ほとんど夜しか家には居なかった。長女の美弥子は高校受験で極度に神経質になっていて、他の妹たちが姉の分まで家事の分担を受け持たされていた。家族にはそれぞれに役割があり、その中で、父も母も妹たちもいつもどおり動いているようにみえた。それは一体になって回転している歯車のようなもので、すでに私の歯車がそこから離されようとしていることがさみしかった。
弁当を食べ終わると、羽田と平野は展望台めざして向かったが、私は頭痛がするのでひとり残って横になっていた。私の頭痛は持病で、映画を観たりしても激しい頭痛に襲われることがしばしばだった。しばらくの間、2人の話し声が草むらを抜ける風の音に混じって聞こえていたが、それも次第に遠くなって、あとは風の音だけになった。少しだけ伸び始めた髪の毛をくすぐるように風が吹いていた。髪はほんの数日前に伸ばし始めたところだが、手で触れると、これまでの丸刈りとは違うやわらかい髪の感触に変わりつつあった。
公立高校は丸刈りが義務付けられていたが、3年生になって自分の進路が決まると髪を伸ばすことが認められた。だから早く就職や進学が決まった者ほど髪は伸びていた。私は卒業するまで髪を伸ばすことはできなかった。高校生活で私が情熱を注いだことがあったとすれば、市立図書館に通うことぐらいしかない。民家を改造したような小さな図書館、オガクズを燃やしていたストーブ、時々くすぶって煙が目にしみるのがかえって刺激的だった。文学全集の茶色のケースが唯一の心の支えであり、授業中も福永武彦や堀辰雄の世界に没頭していた。
脈を打つような痛みがひいて頭痛は少しずつ治まってきた。春がすみのせいで空の色も白っぽかった。あるのかないのかわからない空を見つめていると、自分の体が宙に浮いているような不安に襲われた。明日から始まる新しい生活、東京にはどんな生活が待っているのかまったく分からなかった。まるで春がすみのように霞がかかっていた。新聞販売店のある東京の赤羽というところを地図で探してみた。東京都の北のはずれで、近くを荒川という大きな川が流れている。そばに川があるということだけで、私は気持ちの平安を保とうとしていた。
コージさんと啓之と私の3人は縁台将棋の仲間だった。羽田と平野との三人の関係は中学の同級生だったということだが、いずれも強い絆ではなく、まだ淡い交わりでつながっていたにすぎない。そして、それぞれに別離があったわけだが、その後、コージさんとは会っていない。啓之とは、彼が若死にしたので生前はついに会えなかった。平野とは55歳で彼が死ぬまで親交があった。そして羽田とは、今でもあの頃のことを語り合う関係が続いている。
久住高原からの帰途は、最終バスに乗り遅れてしまい、夜道を歩いて帰ることになってしまった。深く記憶に刻むには十分満足できる長い道のりだった。
家に着くと、もう家族の食事は終っていた。
りっぱな尾頭付きの鯛が食卓にあった。家族の笑顔がなにかを期待するようにみえた。みんなの様子には意味がありそうだった。私が鯛に箸をつけたときにその意味がわかった。鯛の裏側の半身はすでに家族で食べられてしまっていたのだ。私がそのことに気がついた時、みんなもホッとしたように声を出して笑った。
家族みんなで私の誕生日を祝ってくれたのは、それが最後だった。

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